57日目 『鎹』


 ある夜、わたしの家に電話が掛かってくる。


 わたしはベッドの上で身を起こし、寝室を出る。重い体を引きずりながら電話機の前に赴いて受話器を取る。


 受話器から聞こえてくるのは男性の声だ。


 声の主は大きく声を張り上げ、受話器を通したときに金属が割れるような響きを伴ってわたしの耳を刺激する。

 怒声である。


 この際だからもう全部話すが―― 


 それが口火を切る合図となり、そこから様々な不平不満と罵詈雑言が受話器をくぐって飛び出してくる。

 そこでわたしはあることに気がつく。

 この声の主が誰なのか、心当たりがないことに。


 わたしは言う。

 すいません、どちら様でしょうか?


 少しの沈黙の後、電話口の男性が言う。

 すいません、番号を間違えて掛けてしまったみたいです。


 ブツっと、何かが引き千切られるような音がして、電話が切られる。

 そこからツー、ツー、ツー、という単調で無機質なリズム。


 わたしは受話器を置いて寝室に戻る。

 ベッドの上に仰向けになり、頭上の暗黒を見つめながら眠気が訪れるのを待つ。


 そこで再び、電話のベルが鳴る。


 わたしが受話器を取ると、男性の声が聞こえてくる。

 先程と同じ人物の声。


 先程は申し訳ありませんでした。と男性が言う。

 実は今、恋人とちょっと揉め事があって――


 それから電話口の男性は、自分と恋人との間に起こった顛末を、わたしに語って聞かせる。何故そのようなことが起こったのかという背景。その件に対する自分の見解。そして、相手の恋人に対する反省と謝罪の念。

 それらを仔細にわたしに語って聞かせた後、男性はこのような申し出をわたしに告げる。


 今の話を、僕の代わりに彼女に伝えてくれませんか?


 わたしは言う。えっ、わたしがですか? 

 男性は言う。はい、こういうことは第三者を間に挟んだほうが、解決が早いと言いますし。


 わたしは、ご自分で伝えたほうがいいと思いますが、と見解を述べるが男性は引き下がらない。そこあらしばらく、不毛なやり取りが続く。最終的に、わたしは指定された番号に電話を掛けることになる。


 プルルルルというコール音が連続で10回続き、そこで電話がつながる。


 わたしが何か言うよりも先に、女性の怒声が受話器から轟いてくる。

 あんたねえ、よくもぬけぬけと電話してこれたものね全く私がどういう気持だかわかってるっていうの?大体あんたは昔からそういう――


 女性はわたしに口を挟む隙を微塵も与えず、一方的に自分の不平不満、罵詈雑言を放出し続ける。

 そのような時間が何分も継続される。

 どこかの時点で、言うべき言葉が尽きたのか、あるいは息が続かなくなったのか、女性の声が途切れる。

 そこでわたしは第一声を発する。もしもし? 


 女性の声色が急変する。あらやだ、私ったらてっきり。どちら様?


 わたしは男性から承った件について話を始める。


 つまりこういうことでして。


 わたしは、果たして相手が納得してくれるだろうかと考えるが、思いの外すんなりと、女性はわたしの話を受け入れる。

 あの人がそこまで言ってるなら、私もこれ以上意固地になるのはやめるわ。


 話を終え、わたしは受話器を置く。

 大きな欠伸が口からこぼれ出る。

 寝室に戻ろうとしたところで、わたしは気づく。

 既に太陽が昇り始めている。




                 ◆◇◆




 それからしばらく経ったある日のこと。


 わたしの家に電話が掛かってくる。


 お久しぶりです。電話口の女性が言う。先日はありがとうございました。


 わたしは言う。ああ、あのときの。


 電話口の女性が言う。おかげであの後、彼とは上手く仲直りできました。ただ、昨日またちょっとトラブルがあって……


 女性はそのトラブルとやらについて仔細な情報をわたしに伝える。そのトラブルが発生した根本的原因と、責任の所在、それから女性の謝罪と反省の意。


 女性は言う。これらのことを、あなたから彼に伝えてもらえませんか?





                 ◆◇◆



 そのような形で、わたしはその男性と女性の間を仲介する役目を負うことになる。


 どちらか片方から、わたしの家に電話が掛かってくる。

 電話の主はもう片方について伝えるべき事柄をわたしに伝える。

 相手に直接は言いにくいようなことでも、わたしについては遠慮なく言えるらしく、様々な不平不満と罵詈雑言がわたしの耳に注ぎ込まれる。

 わたしはそこから重要な部分だけを抽出し、もう片方へと電話で伝える。

 このような形で、男性と女性は互いに対する不平不満と罵詈雑言を、直接相手に伝えることなく吐き出すことが可能になる。

 このような機構のもとで、男性と女性の関係は平和的に維持されることになる。


 完璧なシステムだ、と男性は言う。


 完璧なシステムね、と女性は言う。


 はぁ、とわたしは言う。





                 ◆◇◆




 あるとき、わたしが家を引っ越すことになる。

 わたしはそのことを二人に電話で伝える。


 男性の方が言う。引っ越すって、どこに? 

 わたしは答える。今住んでいる場所とは、異なる国の名前を。

 男性は言う。えっ、外国じゃないか。ちょっと待ってくれ。君が外国に行ってしまったら、今のように気軽に電話できなくなってしまうじゃないか。

 冗談じゃない、と男性は言う。僕は認めないぞ。


 女性の方が言う。引っ越すって、どこに?

 わたしは答える。今住んでいる場所とは、異なる国の名前を。

 女性は言う。あらそう。それは寂しくなるわね。でも仕方ないわね、あなたにもあなたの人生があるのだし。

 でも、と女性は続ける。アドバイスするなら、やめておいてほうがいいと思うわね。その国ってほら、今色々あるじゃない。このタイミングで引っ越すのは、よくないと思うわよ。もう一度考え直してみてもいいんじゃない? 別に今すぐでなくたっていいんでしょう?


 その後も男性とわたし、女性とわたしとの間で、不毛なやり取りが続く。

 最終的に、一度三人で会って話し合おうと、男性が提案する。

 女性の方もそれに乗る。そうね、これは三人の問題だもの。



 そのようにして、わたしは指定された場所に赴く。



 そこには男性がひとりと、女性がひとり、並んで座っている。



 どちらもわたしより、ずっと年上である。

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