09日目 『競馬で確実に勝てる方法』


「俺さぁ、競馬で確実に勝てる方法知ってんだよ」

 男はそう言った。

「知りたいか?」


 特に知りたいとは思わなかった。

 だが、おそらくこの男はそれについて話したいのだろうなという様子が伺えたので、わたしはこう言った。


「よかったら教えて下さい」


 男は身を乗り出した。


「いいか、他のやつにはナイショだからな?

 あのな――」




                 ◆◇◆



 もう結構昔のことになるのだが、一時期、競馬場のすぐ近くに住んでいたことがあった。

 その家は競馬場へ向かうための一本道と面した土地に建てられていて、庭の手入れをしているときなどに、行き来する人の姿をよく目にすることがあった。


 行きの道では、皆が活気に溢れた表情をしていた。期待や興奮、あるいは未来への希望といったものが顔の上に顕れていた。足取りも、みな軽やかだった。

 帰りの道では、一変して大半の人間が生気のない表情をしていた。虚無や落胆、あるいは人生への失望といったものが顔の上に顕れていた。活気を放つ人間も何割かはいたが、そのうちの半数は同時に怒りを放っていた。行きの道以上の笑顔を見せて歩くのはごく少数の人間だけだった。


 そこで暮らし始めて数ヶ月ほど経ったとき、わたしはあることに気がついた。

 ひとりの男が、常に笑顔で帰りの道を歩いているということに。


 その男は、レースが開催される日はほぼ毎回姿を現した。

 年齢としては、中年も半ばを過ぎて初老に片足を踏み入れたあたり。

 腹部が大きく突き出た体型をしていて、それでいて腕と足は不釣り合いな細さだった。

 無造作にヒゲを生やしていて、いつもボロボロのジーンズを履いていて、常に片手に酒瓶を一本握っていた。

 そして行きの道でも帰りの道でも、男は常に笑顔だった。


「ああ、今日も勝っちまった」


 鼻歌交じりに歩きながら、そのように呟きながら帰りの道を歩いていた。

 男が誰かを連れて歩いているところは見たことがない。

 いつもひとりで歩いていて、ひとりでそのように呟いていた。


 その地区で暮らしている間、結局一度も、わたしは競馬場に足を運ぶことがなかった。

 ただ、その男とは一度だけ会話をする機会があった。





                 ◆◇◆




 その日、わたしが庭で草むしりをしていると、何か、ガラスが割れるような甲高い音が聞こえた。

 見ると、あのいつも笑顔で帰りの道を歩いている男が、片手と片膝を地面について、うずくまるようにじっとしていた。

 恐らく、転倒したのだろう。そしてその拍子に握っていた酒瓶が地面に叩き付けられたらしく、男の手元に破片が散っていた。同時に男の手元からは血が流れていた。

 結構な量の出血だった。

 そのとき、近くを歩いている人間は大勢いたが、誰もその男に関わろうとはしなかった。一瞥だけして通り過ぎるか、あるいは一瞥もせずに通り過ぎていった。


「あのう」

 わたしはその男に声をかけた。

「大丈夫ですか?」


 わたしはその男を家の玄関先まで連れて行った。それから消毒液と包帯を持ってきて傷を手当した。幸いにもそう深い傷ではなさそうだった。


「すまねえな、世話になっちまって」

 男はそう言って、ジーンズの尻ポケットからスキットルを取り出してわたしの目の前に掲げた。

「グラスはあるかい? 一杯注がせてくれよ」


 わたしは「自分、アルコールが受け付けない体質でして」と言った。


「ええっ? マジかよ。そうかぁ、どうしたもんかなぁ……」


 男はなにか悩んでいるような様子を見せ、それからなにか素晴らしい考えが閃いたような表情を浮かべた。


「俺さぁ、競馬で確実に勝てる方法知ってんだよ」

 男はそう言った。

「知りたいか?」


 特に知りたいとは思わなかった。

 だが、おそらくこの男はそれについて話したいのだろうなという様子が伺えたので、わたしはこう言った。


「よかったら教えて下さい」


 男は身を乗り出した。


「いいか、他のやつにはナイショだからな?

 あのな、単勝をな、単勝の馬券を出走馬全員の分を一枚ずつ買うんだよ」


 男は言った。


「そうすればよ、どの馬が勝っても、手元には当たり馬券が握られてるってわけよ」


「ええと」

 わたしは言った。

「それだとオッズが低い馬が勝った場合、恐らくトータルでの収支はマイナスになるのでは?」


「おっ、あんた鋭いねぇ。そうさ、あんたの言うとおりだよ」


 男はそう言うとスキットルの蓋を開けて中身を一気にあおった。


「俺も昔はもっと普通に賭けてたさ。でもよ、こうしておけばよ、どの馬が一着になってもよ、俺は当たり馬券を握りしめてさ、“やった!”って言うことができるんだよ。そんでゴールにした馬にもよ、“よくやったぞ!”って言えるんだよ。毎回な。わかるか? つまりよぅ、賭けた馬が負けたりとか賭けてない馬が勝ったりとかしてよ、その馬を恨んだりとか、憎んだりしなくてもよくなったんだよ。これってすごくねぇか? なぁ、これ俺が考えたんだぜ。俺の脳みそも捨てたもんじゃねぇよな」


 わたしは「はあ」と言った。




                 ◆◇◆



 それから半年ほど経った日のことだ。

 市の職員を名乗る人物が訪ねてきて、誰々が死んだ、ということをわたしに告げた。

 最初、それが誰のことなのかよくわからなかったのだが、話が進行するにつれ、あの『競馬で確実に勝てる方法』を語った男のことだと認識できた。

 病死だった、と市の職員を名乗る人物は言った。前々から重度の糖尿病を罹患していて、肝臓もやられていた、と。


「ええと」

 わたしは言った。

「何故それをわたしに?」


 市の職員を名乗る人物は、以下のようなことを説明してくれた。

 まず、その男には身寄りがなかった。この地区の取り決めでは、身寄りのない人物が死亡した場合、市がその埋葬と墓石建立を執り行う。その費用の補填として、死亡した人物の遺産は市が大部分を没収することになっている。預貯金や、有価証券、金銭的価値が見込める物品はすべて引き上げることが条例で定められている。

 で、男は遺言状を残していた。

 そこには様々な申し出が書かれていて、その中に、自分の遺品の一部をある人物に譲渡してほしいという一文が書かれていた。

 その人物というのが、つまりこのわたしだった。

 そして、指定された遺品は、金銭的価値が一切認められないものだったので、市の没収対象から外れ、申し出通りわたしに譲渡することが決まった。


 市の職員を名乗る人物は、そのような内容を極めて堅苦しい口調でわたしに説明し、平たい紙の箱を置いて、どこかに去っていった。




 箱の中身は大量の馬券だった。

 全て平等に一定の金額が賭けられた馬券だった。細かく確認してみると、どのレースでも、1レースごと15枚前後の馬券が買われていることがわかった。

 おそらくこれは、彼が語っていた『競馬で確実に勝てる方法』、それを彼が忠実に守り続けたという、ひとつの記録なのだと、わたしは思った。

 当たり馬券を保管しているとは思えないので、全て外れの馬券に違いなかった。


 箱の表面には、でかでかとした手書きの筆致で『愛』と書かれていた。


 わたしは「えっ、どういう意味?」と言った。




                 ◆◇◆



 先日、たまたまその地区を訪れる機会があった。

 そこで暮らしていた時期の記憶がふと蘇り、わたしはその地区の公営墓地に足を運んでみた。


 その男の名前はもう覚えていなかったが、その男の墓に刻まれていた墓碑銘の文言は記憶していたので、わたしはその墓を見つけることが出来た。

 墓石の表面は苔がむしていて、周辺は雑草が茂っていた。長い間、誰も手入れをしていないことが伺えた。

 わたしは墓についた苔を洗い流し、群生した雑草を取り除いた。それから酒瓶を一本墓前に備えて、わたしはそこを去った。





 その墓には、『人生の勝者、ここに眠る』という墓碑銘が刻まれている。


 意味は、よくわからない。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る