10日目 『そして、何かが渡された』
街を歩いていると、よくこのような状況に遭遇する。
まず、見知らぬ誰かが前方に立っている。
わたしが前進していくと、あるタイミングでその見知らぬ誰かは「お願いします」とわたしに言う。
それと同時に、手に持っている何か--広告のチラシ、ポケットティッシュ、シャンプーの試供品、といったものをこちらに差し出してくる。
わたしも最初のうちは、そういった状況に遭遇する度に足を止め、「はい、お願いとはどういったことでしょうか?」と訊ねていた。
でも今はもう、彼らがそのような対応を望んでいないということを重々承知している。
彼らが望んでいるのは黙ってその差し出された何かを受け取り、そしてそのまま歩き去って行くことだ。
その日も“状況”がやってきた。
斜め前方から聞こえる「お願いします」の声。
わたしは慣れた手つきで、差し出された何かを一瞥もせずに受け取り、そのまま歩き去った。
そこからしばらく歩き進み、ふと、受け取ったまま握りぱなしになっていたそれに目を向けた。
わたしの手に、バトンが握られていた。
陸上のリレー競技で使うような、あのバトンだ。
「参ったな」とわたしは呟いた。
バトンを受け取ってしまった。ということは、つまり次の人にこのバトンを渡さなければならないということだろう。
わたしは誰かバトンを受け取ってくれそうな人が近くにいないかと周囲を見回した。
そこで、あることに気がついた。
わたしの周囲に、人がいないことに。
昼下がりの商店街、通りを行き交う人々は大勢いた。
にも関わらず、わたしの周囲、半径2メートルほどの範囲にだけ、くり抜いたように無人の空間が作られていた。
明らかに、皆がわたしから意図的に距離を取っていた。
「参ったな」とわたしは呟いた。これでは誰かにバトンを渡すのは難しい。
わたしはとりあえずバトンのことは一旦後回しにして、当初の目的である買い物を済ませようと考えた。
馴染みの食料品店に向かい、中に入ろうとした、そのときだった。
店の自動ドアにこのような張り紙があった。
『バトンを持っている方の入店は固くお断りします』
いつの間にこのようなルールが出来たのだろう。
このような張り紙は、昨日来たときにはなかった筈なのに。
わたしが自動ドアの前でまごついていると、背後から咳払いや舌打ちの音が聞こえた。
見ると、何人かの人たちが遠巻きにわたしを見ていた。
誰も何も言わなかったが、「お前がそこにいたら店に入れないだろ」という無言の圧力が感じられた。
わたしは食料品店の前から立ち去った。そうせざるを得なかった。
「参ったな」とわたしは呟いた。
◆◇◆
それからしばらく商店街を回ってみたが、どこの店に行っても同様の張り紙があり、わたしはどこの店にも入店を許されなかった。
歩き回って喉が渇いたわたしは、公園に行って併設の自動販売機で缶コーヒーを買い、ベンチに腰掛けた。
自動販売機だけはわたしにも買い物を許可してくれた。
公園でも商店街と同様に、皆がわたしから距離をとっていることが伺えた。
わたしはベンチの右端に座っていたが、左端に座ろうとする者は誰ひとりいなかった。
一度、小さな子供がふらふらとこちらに近づいてきたが、母親と思しき女性が物凄い剣幕で走り寄ってきて子供をわたしから引き離していった。
「参ったな」とわたしは呟いた。
缶コーヒーを飲み終え、天をぼんやりと仰ぎながらこれからの行動プランをどう組み立てようか考えていた、そのときだった。
誰かがわたしに接近してくる気配を感じた。
顔を正面に向けると、スーツ姿の男性がひとり、ベンチに座るわたしのすぐ目の前に立っていた。
今ならバトンが渡せる?
そのような考えが反射的に頭をよぎった。
だがそこで、その男性の両手の手首から先が、金網のような器具で球状に覆われていることに気がついた。
これではバトンを掴ませることができない。
「君」男性が言った。「ちょっと一緒に来てもらえるかな」
わたしは男性にどこかの役場のような施設に連れて行かれ、そこの一室に通された。
途中で目に入った人々は、みながその男性と同じように、金網のような器具で手首から先を覆っていた。
「じゃあ質問なんだけど」男性が言った。「そのバトンは誰から受け取ったのかな?」
「覚えていません」わたしは言った。「気がついたら手に持っていました」
男性は苦虫を噛み潰したような顔をした。「また経路不明か」
「経路?」
「それじゃあ」男性は机の上に置いてある書類とペンを指差して言った。「これの必要事項に記入して署名を」
書類には、こちらの名前や年齢、家族構成、ここ数日で接触した人物のリストを記入するよう指示されていた。
わたしは言われたとおりに書類に記入を済ませた。
その後、わたしは独房のような部屋に連れて行かれた。
「では、しばらくここで待機を」
そう告げられ、外側から鍵を掛けられた。
「参ったな」とわたしは呟いた。
◆◇◆
それから2週間ほど経った、ある日のことだ。
わたしが独房の中で支給された麦飯を食べているとき、ふと気がついた。
わたしの手から、バトンが消えていることに。
わたしは独房からの退出を命じられた。
退出時、施設の職員らしき人物からこのようなことを言われた。
「今後はもっと注意して生活してくださいよ。
これはあなただけの問題ではないんですから」
わたしは「わかりました」と言った。
実際のところ、なにが言いたいのかよくわからなかったのが、とりあえずそう言っておいた。
帰宅を許されたわたしは、とりあえず買い物を済ませてから帰ろうと思い商店街に向かった。
そして商店街を歩いているとき、あることに気がついた。
わたしの周囲に、人がいないことに。
いや、正確には、全ての人の周囲に、人がいなかった。
人と人が、互いに大きく距離を取っていた。皆が他者の半径2メートル以内に侵入しないように動いていた。
そして誰もが、あの金網のような器具を両手に装着し、手首から先を球状に覆っていた。
わたしは思った。あの金網のような器具は一体何なのだろうかと。
そして思った。
もしかして今は、あの器具を装着していないと店に入ることができなくなっているのではないか――と。
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