50日目 『半分』


 幼い頃、毎夜繰り返し見る夢があった。


 夢の中で、わたしは現とは異なる身体の構造を持った生物だった。

 そこでは、わたしは二つの頭部、四本の腕、四本の脚を保有していた。


 そこでのわたしは、素晴らしい全能感に包まれて生きていた。

 二つの頭部は、前後左右を一度に視界に収めることが出来た。

 四本の足はしっかりと体を支え、如何様に動いてでも決して転倒することがなかった。

 そして四本の腕は、それは見事な音楽を奏でたものだ。


 ピアノの鍵盤の上を走る、二十本の指。

 それが紡ぎ出す重層で厚みを持った音の連なりは、いつもわたしを恍惚とした浮遊感にいざなってくれた。

 しかし、そのような心地よい全能感は、起床とともに霧のごとく消えていく。


 朝、目を覚ます度に、わたしは憂鬱な気持ちになった。


 夢のわたしと比べて、うつつのわたしは明らかに不完全だった。

 一つしかない頭では、あまりにも見える範囲が狭く、わたしは様々なものを、知らずしらずの内に見落としているのではないかと、常に不安だった。


 二本しかない脚は、体を支えるにはあまりにも不安定だった。

 わたしは頻繁に転倒し、常にどこかに傷を作っていて、常にどこかしらに痛みを抱えていた。


 そしてこの、たった二本だけの腕。

 たった十本だけの手指。

 わたしはうつつでピアノを弾く度に、途方も無い虚無感を味わった。

 あまりにも物足りない。

 わたしの頭の中で組み立てられた音楽のイメージを、わたしは決して、十全に表現することが出来なかった。

 あまりのもどかしさに、わたしはいつの間にか、うつつでピアノを弾くのを辞めてしまった。



 その頃のわたしの気持ちは、この一点に集約されていた。


“半分しかない”


 その頃のわたしにとって、夢の中の自分こそが、自分という存在の基準だった。

 うつつの自分は、全てを半分にされた状態だった。

 半分の視野、半分の安定感、半分の表現力――


 わたしは常に不満だった。

 半分しかない。

 半分しかない。

 ずっと満たされない気持ちを抱えて生きていた。



 今?


 今はもう、そのような気持ちになることは無くなった。


 理由?


 簡単に言えば、、ということになる。


 恐らく君も聞いたことがあるだろう。


 “コップの中に、水が半分入っている”


 いや、“グラスの中にワインが半分入っている”だったかな?


 まぁ、どっちでもいい。


 とにかく、ケイスの中身が半分という状況があればいい。


 その状況に対して、“もう半分しかない”と捉えるのか、それとも“まだ半分もある”と捉えるのか。


 そういう話だ。


『半分』という現実を変えることはできない。

 でもそれについて“もう半分しかない”と嘆くのか、それとも“まだ半分もある”と充足するのかは、自分で選んで、自分で決められる。


 具体的にいつからそうしたのかは覚えていないが、とにかくある時期から、わたしは後者の考え方を採用した。



 、と。



 頭は一つ、腕は二本、脚は二本だが、まだそれだけ残ってる。

 そしてそれだけ残っていれば、概ね充分ではないかとね。


 確かに頭一つでは見える範囲は狭いし、脚二本では不安定だし、腕二本では大したことは出来ない。


 それでも、どうしようもないくらい不足か? といえば、そうでもない。


 まぁ、頑張ってやりくりすれば、どうにかやっていける。


 それは確かだ。


 そういう風に考えるようになってから、もう随分経つ。


 今ではもう、この状態のほうが、自然に感じられるようになっている。


 頭が一つ、腕が二本、脚が二本。


 この姿のわたしが、本来のわたしであると、今はそのように捉えるられるようになってきた。


 そう。


 だから、困っているのだ。


 どうしたものかな、と。


 ああ。


 そういえばまだ話していなかったか。


 昨日、警察から電話が掛かってきたんだ。


 『遺失物を受け取りに来てください』とね。


 そう。


 見つかったんだよ。


 わたしのもう一つの頭と、もう二つの腕と、もう二つの脚が。


 でもねえ。


 さっき言ったとおり、今のわたしにとっては、頭は一つであること、腕と脚は二本であることのほうが自然に感じられるんだ。


 だから、どうしたものなのかなと思ってね。



 ――あ、



 もし、



 良ければなんだけど。




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