47日目 『迷える羊』


 長いこと不眠症に悩まされているので、有名どころの睡眠導入方法は一通り試してきた。


『羊を数える』というのも、一時期はよくやっていた。


 ベッドの上に仰向けになり、暗闇の中で目を閉じて、頭の中で詠唱を始める。羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹、羊が四匹……


 三十匹から四十匹くらいまでは、スムーズに進行する。単調で一定のリズムが頭の中を反復し、脳が睡眠に向かって着実に歩を進めているのを感じる。


 だが、五十匹を超えた辺りでふとこのような疑問がわたしの頭をよぎる。



“羊とは、どのような生き物だったか?”



 わたしは自分の記憶を探り始める。羊とは、どのような生き物だったか? 勿論わたしはそれを記憶している。四足歩行。全身を覆う柔らかな体毛。哺乳類。鯨偶蹄目。草食。頭には角が――


 角?


 羊に角は、あっただろうか?


 わたしは自分の記憶にある羊のビジュアルを仔細に検証する。角は、あったはずだ。羊の角と言ったら、有名じゃないか。渦巻状の角だ。アンモナイトのような形の。


 わたしは、数えてきた羊のイメージに、渦巻状の角を追加する。よく馴染んでいいる。わたしは安堵する。


 そこから再び、わたしは羊を数え始める。六十匹。七十匹。順当だ。しかし、八十匹を超えた辺りで、このような疑問がわたしの頭をよぎる。



 この角は、羊ではなく山羊のものではなかっただろうか?



 言われてみると、そのような気がしてくる。わたしは羊と山羊のイメージを混同しているのではないだろうか?


 いやいやちょっと待て。そもそも羊と山羊は近縁種だし、似たような角があっても不思議ではないのでは?


 わたしは段々と羊というものの実像が掴めなくなってくる。


 わたしは、ここまで思い描いてきた八十余匹の羊たちから、思い切って角を削除してみる。


 その姿は驚くほど違和感がない。


 わたしは悩み始める。やはり羊に角はないのだろうか? しかし、角がある姿も、それはそれで違和感がない。もしかして角がある種とない種がいるのだろうか? それtも、オスには角があってメスにはないとか、そういう法則なのだろうか? そういった生き物は自然界には多い。鹿、カブトムシ、それから……




 この辺りで思考がどんどん無関係な方向に行き始めるのをわたしは必死で引き止める。今やるべきことは雌雄で角の有無が異なる生き物のリストを作ることではない。羊を数えることなのだ。


 そこからしばらくは脳内で合議が行われる。厳格な議論の末、最終的に今回は角があるタイプの羊の像を採用することに決定が下される。リアリティをどこまで追求するかのラインは押し下げられる。


 そこからようやく、わたしは羊の計測を再開する。九十匹、百匹と、角のある羊たちが並べられていく。ようやく軌道に乗り始めたとわたしは思う。しかし、百五十匹を超えた辺りで、また新たな障害が発生する。


 この羊たちは、一体どこにいるのか?


 わたしは並べられた羊たちの像から視点を後退させ、俯瞰した視点から周囲を見渡す。そこは何もない、白一色の空間だ。スタンリー・キューブリックの映画に使われそうな印象の。しかし、こんな場所に羊が群れをなして生息することなどありうるだろうか?


 わたしは空間にも新たなイメージを付け加える。牧草地帯だ。辺り一面には艷やかな緑の草が生い茂っている。空は青く、空気は澄んでいる。遠くにはアルプスの山嶺が見える。絵に描いたような牧歌的空間がそこに描画される。


 これでもう安心だとわたしは思う。この先、羊がどれだけ増えても飢えずに済むだけの恵みが、この土地にはある。気兼ねなく羊を増やすことができる。


 わたしは羊の計測を再開しようとする。そしてそこではたと気づく。



“今、何匹目だっただろうか?”



 百五十を超えたことは覚えている、しかし最後の一桁が思い出せない。わたしは必死で記憶を探り出す。最終的に、百五十三か、百五十四、この二択までは絞り込めた。だが、果たしてどちらだったか……


 わたしは悩む。悩んだ末、最終的にまた一から数え直すことに決定が下される。


 わたしは百五十三匹か百五十四匹かの羊の群れから視線を外し、別の区画に目を向ける。そこにまた一から羊を産み出し始める。羊が一匹、羊が二匹、角のある羊が牧草地の上に出現し始める。


 作業は順調に進んでいく。羊が六百二十一匹、羊が六百二十二匹……段々と意識がまどろみ始める。眠気の到来を、わたしは予感する。眠気がすぐそこまでやって来ている気配を、わたしは感じる。そして寝室のドアを、何者かが控えめな音でノックする。わたしは確信する。『眠気』がここに訪れたのだと。



 だが、そうではなかった。



 やって来たのは、一匹の羊だった。



「すいません」羊が言った。「群れからはぐれてしまったんですが」


「ああ」わたしは言った。「もしかして、最初のグループの百五十四匹目の……」


「もといた場所に帰りたいんですけど」羊が行った。「住所を教えてもらえませんか?」



 わたしは体を起こし、ベッドから這い出る。身体が、酷く重たく感じられる。わたしが電灯を点ける。眩しさで目が灼かれそうになる。


 わたしは本棚から地図帳を引っ張り出す。それを机の上に広げて、牧草地帯がありそうな場所を探す。いや、牧草地帯ならどこでもいいというわけではない。わたしはイメージの中で、“遠くにアルプスの山嶺が見える”という設定付をしてしまった。その条件に合致する地点を探す必要がある。


「まだですか?」


 羊が首を突き出して、机に広げられた地図帳を覗き込んでくる。


「急いでください。早く群れの仲間たちに会いたいんです」


 わたしは「少々お待ち下さい」と言いながら必死で条件に合致しそうな場所を探し、ページを手繰っていく。




 今夜も眠れそうにない。


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