12日目 『人を従前の生活環境から離脱させ、自己又は第三者の支配下に置く』


 その時、わたしは走行する列車の中にいた。


 列車はかなりの長距離路線を走っていて、座席の上で時間を持て余していたわたしは、暇をつぶすため、駅で購入した雑誌に載せられたクロスワードパズルを解いているところだった。

 3分の1ほどのマスを埋めたところで、このような設問に遭遇した。



『ヨコのカギ・4

 身代金の授受などを目的として、人をおどすなどして連れ去ること』



 それを見た瞬間、わたしの脳裏に、遠い昔のある夏の日に起こった出来事の記憶がまざまざと蘇った。




                 ◆◇◆




 その頃のわたしは経済的にあまり裕福でなく、単身者用の非常に狭いワンルームアパートに身を寄せていた。

 当時わたしが住んでいた部屋は一階の角部屋で、西日が直で差し込むような位置取りをしていて、それでいて風通しは悪く、夏の午後などは悲惨なほどの暑苦に苛まれたことを、今でもよく覚えている。


 その日は年間の中でも特に気温の高い一日だった。

 うだるような暑さの中、わたしは部屋で横になっていた。読みかけの雑誌を日よけ傘のように顔の上に乗せて、真夏の熱気がもたらす倦怠に屈するように全身を弛緩させていた。


 そのときだった。

 隣の部屋から話し声が聞こえたのは。


 珍しいな、とわたしは思った。この部屋で暮らし始めてからそれなりの日数が経っていたが、隣の部屋から話し声が聞こえたのは初めてだった。声量を抑えた、ボソボソとした発声で、何かを喋っているということはわかったものの、発言の内容まではそのときは聞き取ることが出来なかった。

 わたしはふと好奇心にかられて、隣の部屋との間を仕切る壁に耳を押し当ててみた。

 すると、このような声が聞こえた。


 …………おとなしくしていろ…………声を出すな…………


 男の声だった。

 同時に、うーうーとか、むーむーといったような、くぐもった呻きのようなものも微かに聞こえてきた。

 そして次にこのような言葉が聞こえた。



 …………身代金の受け渡し場所だが…………


 

 確かに、そのように聞こえた。

 わたしは、このとき自分が遭遇している事態がにわかに信じられなかった。

 まさか、このようなことが? 本当に?

 わたしは手を震わせながら、読みかけになっていた雑誌を拾い上げ、最後に目を通していたページを開き、その一文を改めて読み直した。



『タテのカギ・11

 身代金の授受などを目的として、人をだますなどして連れ去ること』



 そう、これだ。雑誌に載せられたクロスワードパズルの中で、この設問だけがどうしてもマスを埋められなかったのだ。

 マスの数は4つで、最初の1文字目は『ユ』が既に入っている。そう難しい言葉ではないはずだが、度忘れしたのかどうしてもここに入る語句が思い浮かばなく、それがずっと引っかかっていたのだった。


 だが、今の“身代金”の話を聞く限り、隣の部屋の住人なら、恐らくここに入る語句を知っているのでは……?


 わたしはすぐさま部屋を飛び出した。

 そして隣室のドアをノックして、こう言った。


「すいません、隣室のものです。

 今そちらの話し声が聞こえまして、そのことについてちょっとお訊ねしたいのですが」


 返事は、なかった。

 代わりにドタン、とか、ガタン、といった慌ただしい物音が室内から聞こえた。

 それからガラガラ、という窓を開けるときの音が聞こえ、それから人が走るようなバタバタという音が聞こた。

 それからしばらくは、何の音も聞こえなかった。


 わたしは建物を回り込んで、隣室の裏口側に向かった。

 隣室の部屋は裏口側の窓が開けっ放しになっていた。


 室内には、子供がひとり、床の上に転がされていた。


 両手首と両足首を針金で縛られていた。目隠しが巻かれ、口元には猿ぐつわが施されていた。


 わたしは窓から室内に入った。

 子供に近づき、猿ぐつわを外した。


「もしもし」


 わたしは子どもに言った。


「身代金の授受などを目的として、人をだますなどして連れ去ることをユから始まる4文字で何というかご存知ですか?」





                 ◆◇◆




 結局そのときは、あの設問の答えはわからずじまいだった。


 室内に転がされていた子供は、猿ぐつわを外すと大声で泣き出し、こちらの質問に答えてくれることはなかった。

 よく見ると、その子どもは負傷していた。殴られたような痣が各所に見受けられた。


 わたしはその部屋に置かれていた電話機で救急車を呼んだ。

 それから子供の目隠しと手足の拘束を外し、この部屋で救急車を待っているよう告げ、内側からドアを開けて、隣の自室に戻った。

 それからしばらく、設問の答えを考え直したが、答えが浮かんでくることはなかった。


 今思うと、何故あのとき答えが出なかったのか不思議に思える。

 答えは『誘拐ユウカイ』だ。今ならすぐにでもあのマスは埋められただろう。

 わたしはそのようなことを思いながら、過去を精算するような気持ちで、『ヨコのカギ・4 身代金の授受などを目的として、人をおどすなどして連れ去ること』の解答欄に『ユウカイ』と記入しようとし、そこで気がついた。


 その設問のマスは4つではなく、5つあった。


 最初の1文字目は、『リ』が既に入っていた。


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