68日目 『選択』


 あるとき、わたしは雑誌で、このような記事を目にする。


 “人は選択を行う度に精神を消耗していく”


 そこには以下のようなことが書かれている。


 何かを選ぶということは、わたしたちの脳や心に多大な負担を強いる。


 朝、どの服を着ていこうとか、食事のときに、何を食べようかとか、


 そういったことを複数の選択肢の中から選び取り、決定を下す度、


 わたしたちの心は擦り減っている、と。


 わたしはその記事を読んで、もっともだと思う。


 わたしも日々、様々な場面で選択を迫られている。


 朝起きて、ベッドから出るとき、わたしはいつも考える。


 今日は右足から先に出そうか、それとも左足から先に出そうか。


 歯を磨くとき、わたしはいつも考える。


 今日は口の右側から磨こうか、それとも左側から磨こうか。


 服を着替えるとき、わたしはいつも考える。


 今日は右腕から袖を通そうか、それとも左腕から通そうか。


 玄関先で靴を履くとき、わたしはいつも考える。


 今日は右足から履こうか、それとも左足から履こうか。


 こういった無数に湧き出てくる選択の瞬間が、自分を疲弊させている可能性は充分に考えられる。


 わたしは一念発起して、これらの選択権を放棄する決意をする。


 右か左かの選択は、全て“右”を選ぶと心に決める。


 その翌日。


 起床したわたしは右足から先に出してベッドから起き上がる。


 歯磨きでは右側から。シャツは右袖から。


 靴は右足から履き、右側の玄関ドアを通って外に出る。


 わたしはいつにも増して頭がスッキリしていることを実感する。


 選ぶという行為を辞めるだけでここまで心が軽くなるとは。


 わたしは意気揚々と道路を歩く。


 歩いている中で、ふとあることに気づく。


 


 そう、わたしは先程、2つ並んだ玄関ドアの、右側の方を選んで外に出た。


 だが、そもそもわたしの家に玄関ドアは1つしかなかったはずでは?


 そのようなことを考えながら歩いているうちに、わたしな道に迷ってしまう。


 気がつくと目の前には見知らぬ風景。


 わたしはそのまま進み、二又の分かれ道に差し掛かる。


 右の道と、左の道。


 わたしは右の道に進む。


 次の分かれ道も右、その次の分かれ道も右。


 そのように進んでいく内に、わたしは見たこともない湖の前にたどり着く。


 湖では、二人の女性が溺れている。


 ――助けて! と右側の女性が叫ぶ。


 ――助けて! と左側の女性が叫ぶ。


 わたしはすぐさま湖に飛び込んで、右側の女性の方へと向かう。


 ――大丈夫ですか? とわたしは言う。どうか落ち着いて、わたしの腕に掴まってください。


 わたしは右側の女性を引き連れて岸まで泳ぎ、その体を陸へ引き上げる。


 ――ああ、ありがとうございます。女性が言う。なんとお礼を言ったらいいか。


 わたしは再び湖に飛び込もうとして、そこで気づく。


 左側の女性が、どこにも見当たらない。


 わたしは救出した女性に質問する。


 ――あそこで一緒に溺れていた、もうひとりの女性は?


 女性は応える。


 ――もうひとり? 何のことです?


 その後、わたしのその女性は微妙に噛み合わない会話を何往復かする。


 それからわたしは来た道を引き返す。


 その道はすべて、分岐のない一本道になっている。

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