74日目 『不眠トリップ』


 ピーター・トリップという人物を知っているだろうか。


 1950年代にアメリカで活躍していたラジオDJでね。


 彼はある挑戦によって、その当時に一つの世界記録を樹立している。


 それは、“どれだけ長いあいだ眠らずにいることができるか”という挑戦だ。


 何故そのようなことをしたのか?


 確か、チャリティーを得るためだったかな。


 小児麻痺で治療している子供たちへの寄付金を募るための企画だったとか。


 ……いや、違ったかな。


 何かの科学実験に協力させられたんだったか。


 その辺の経緯はわたしもよく覚えていない。


 ともかく、彼はその挑戦に取り組むことになった。


 期間は200時間。


 200時間不眠でラジオの生放送をおこなうという挑戦に、彼は臨んだわけだ。


 開始当初、彼はとてもリラックスした状態だった。


 心身は共に健康。


 いつもどおりの快活な喋り。


 だが3日を過ぎたあたりから様子が変わり始める。


 何もおかしなことがないのに、腹を抱えて笑い出す。


 何も悲しいことがないのに、声をあげて泣き出す。


 そのような、感情の乱れが顕れ始める。


 それから彼はこのようなことを言う。


 “被っている帽子がきつくて苦しい”


 じゃあ帽子を脱げばいいって?


 確かにね。


 でも、そのとき彼は帽子など被っていなかったんだ。


 そこからどんどん状況は悪化し始める。


 多種多様な幻覚が彼の前に顕れ始める。


 彼が語った内容を幾つか抜粋してみようか。


 曰く、体を虫が這い回っている。


 曰く、猫とネズミがスタジオ内で追っかけっこをしている。


 曰く、靴の中に大量の蜘蛛がいる。


 曰く、机が燃えている。


 曰く、自分を葬るために葬儀屋が近づいてきている。


 それからこのようなものものあった。


 曰く、


 自分が演じている男の名前だと。


 勿論、これも事実ではない。


 ピーター・トリップは彼の本名だった。


 とはいえ、そのような状態になりながらも彼は当初の目的を達成させた。


 200時間不眠で生放送を続けた。


 終盤は、覚醒作用のある薬物を投与されていたそうだが、ともかく彼はやりきった。


 最終的な記録は201時間だったかな。


 終わった時、彼はもう見るも無惨なほどにボロボロになっていたそうだ。


 そこから彼は長いあいだ眠り続けた。


 どれくらいか?


 確か、13時間だったかな。


 その後は、精神状態もある程度回復したらしい。


 ただ、聞くところによるとだね。


 その後の彼は、そうだ。


 彼の親しい友人の語るところによると、その挑戦以後の彼は、以前の彼とは全く異なる性格や精神の人間になっていたらしい。


 事実かどうか?


 さあ、そこまではわたしにもわからない。


 人の性格が変わったかどうかというのは完全に主観の話だからね。


 でも、長時間眠らないでいるだけで、人間の精神が別物に変容してしまうとしたら、


 ちょっと恐ろしい話ではあるね。


 まあ、でも最後のこの部分は誰かがこのエピソードにインパクトを持たせるために付け加えた尾ヒレなんじゃないかとは思うね。


 何故そう思うかって?


 実はね。


 わたしもそれくらいの期間、眠らずにいたことがあるんだ。


 200時間、8日から9日くらいの間を。


 いや、わたしの場合はなにかに挑戦してたってわけじゃない。


 単純に不眠症の酷い時期でね。


 意図せずしてそうなってしまっただけなんだが。


 でも、それ以前とそれ以後で、


 わたしは特に何も変わってはいない。


 性格や、ものの考え方や、感じ方。


 全部、前と一緒だ。


 だから、ピーター・トリップ氏が別人のように変わってしまったという話は、


 事実かどうかは怪しいと思っているよ。


 勿論、長時間眠らないことは健康には良くないし、


 避けるに越したことはないと思っているけどね。


 ああ、実を言うと。


 ここ最近も不眠症気味でね。


 ここ3日くらい眠れてないんだ。


 まあ、でも、そこまで不調ではないよ。


 もう慣れているからね。


 頭もそれなりにハッキリしているよ。


 ところで今日は、


 随分と虫が多いね。


 もうすっかり冬だっていうのに。

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