28日目 『通話』


 眠れない日が続くと、世界と自分との距離がどんどん隔たれていくように感じる。


 音や、匂い、気配といったものが、通常よりも希薄に感じられ、あらゆるものが、ずっと遠くの、手の届かない地点に存在するようにしか捉えられなくなっていく。

 実際は、すぐ近くにあったとしても。


 視覚に映る世界も、どこか解像度というものが磨り減ったように見える。古びた写真のように、目の前のものが色褪せて見える。目の前にあるものが、本当に今、この瞬間、自分の目の前に存在しているのかとうのが疑わしくなってくる。古い写真に焼き付いた、遥か昔の光景なのではないかと、そのように思えてくる。


 まとまった睡眠が取れない日が続いて、もう6日になる。


 医者から処方された薬は、まるで効果が見られなかった。愛飲しているコーヒーも3日前から断っていたが、これといった改善は見られなかった。


 わたしはソファの上で横になりながら、何者かが現れて、わたしの意識を眠りの谷底に突き落としてくれないかと、目を閉じて祈っていた。


 どれくらいそうしていたのかは今となってはよく覚えていない。


 最初に感じられたのは、何かを叩く音が聞こえたということだ。


 睡眠不足で朦朧としていたせいか、それがノックの音だと気づくまでには結構な時間を要した。それがノックの音だと気づいてから、更にそれが自分の家のドアをノックする音だと理解するまでには、更に時間を要した。


 わたしは起き上がった。体重は増えていないはずだが、身体は異様な重みを感じさせた。


 もたもたと玄関まで歩いていくと、そこには見知らぬ老女がいた。

 非常に背が低く、腰の曲がった老女だった。最初見た時は、あまりの小ささに、うずくまっているのかと思ったが、足元を見ると、どうやらこれでも立っているらしかった。


「あ、あ、どうも」老女は言った。「この度、は、息子が、ご、迷惑をおかけ、しま、して」


 老女はそう言って、わたしに厚い封筒を手渡してきた。


「息子から、承っ、た、金額が、入ってます。ので」


 老女はそう告げて、わたしに匹敵する遅々とした歩みで、我が家の玄関先からどこかに歩き去っていった。


 わたしは封筒の中身を見た。

 札束だった。


 何枚あるのか、一見しただけでは判別できなかった。

 数えようかと思ったが、やる気がわかないのでやめた。


 わたしは居間に戻り、封筒をテーブルに放り投げて、再びソファに横になった。





                 ◆◇◆





 それからしばらくして、また玄関からノックの音が聞こえた。


 ドアを開けると、見知らぬ老女が立っていた。

 見知らぬ?

 いや、どうだろう。どこかで見たことがあるような気もする。

 だが、よく思い出せなかった。


「遅く、なり、まして失礼、しました」老女は言った。「息子、から聞いた、住所をまち、がえて、しまって、一度、別の場所に行ってしまったようで」


 老女は言ってわたしに厚い封筒を手渡してきた。


「息子から、承っ、た、金額が、入ってます。ので」


 老女はそう告げて、わたしに背を向けて歩き出した。

 液体の中を歩いているかのような速度だった。


 わたしの家の玄関ドアを出て、2歩ほど進んだ地点でその足が止まった。

 そこからしばらく、老女はその場で立ち尽くしていた。


 それからどれくらいの時間が経ったか?

 よく覚えていないが、どこかのタイミングで老女は向きを変えてまたわたしの前まで歩み寄ってきた。


「あの、う」老女は言った。「もしかし、て、わたし、先程も、ここにきて、あなた、と、お話しません、でした?」


「ええ」わたしは言った。「わたしも薄々そうじゃないかなと思っていました」





                 ◆◇◆




 老女の話によると、詳しい顛末は以下のようなものだったらしい。


 まず、老女の家に息子から電話がかかってきた。

 息子が語るところによると、息子は少し前に自動車事故を起こしてしまい、早急に示談金を用意する必要ができた。ただ、自分ではとても用立てられる金額ではないので、母さん悪いんだけど代わりに払ってくれない? 今からその被害者の関係者が待ってる場所を伝えるから――


 で、指定された金額を用意して、指定された場所に向かった。

 そしてわたしの家に来て、わたしに札束の入った封筒を渡した。


 それから家に帰ってしばらくすると、再び息子から電話がかかってきた。

 息子からは、まだ金が渡されてないのだがどうなっているのか? という話をされた。

 どうやら指定された金の受け渡し場所を間違えて、見当違いの場所へ行って、無関係の人間に金を渡してしまったらしい。

 息子から再度、金の受け渡し場所を聞き、再び札束を封筒に詰めて出発した、

 そしてわたしの家に来て、わたしに札束の入った封筒を渡した、と。



「息子、から、聞いた場所、は、ここ、なんですけど」


 老女から見せられたメモには住所が2つ書いてあった。

 恐らく最初の電話でメモしたものと、2回目の電話でメモしたものなのだろう。

 だが、どちらも全く同じ番地が記されており、その住所はわたしが今住んでいるこの家の場所に相違なかった。


「多分ですけど」わたしは言った。「地名か番地の数字を聞き間違えたんだと思いますよ」


 老女は「あ、あ、それはそれは」と言った。


 わたしは一回目と二回目で受け取った札束の封筒を老女に返却した。


「失礼、を、いたしま、して」


 老女は曲がった腰でお辞儀をしたようなしてないような微妙な動きを見せて、遅々とした歩みで帰っていった。


 わたしはしばらく玄関先に立ったまま、歩き去っていく老女の後ろ姿を見ていた。

 早く横になって眠りたいというのが、その時のわたしの最優先事項だった。

 ただ、このまま老女を返すと恐らくまたここにやってくるのではないかと思えた。


 しばらく悩んだ末、わたしは老女の後を追った。






                 ◆◇◆





 老女の家は、廃屋と見まごうような古さだった。


「どう、ぞ、こちら、に」


 老女はわたしの申し出を受け入れ、中に通してくれた。

 家の中はある程度手入れが行き届いており、外観ほどの寂れた印象は感じなかった。


「たぶん、また電話がかかってくると思いますので」わたしは言った。「わたしが出て、正確な受け渡し場所を確認します」


「ええ、ええ、どうも、ご、親切に」老女は言った。「今、お茶を、お淹れ、しま、すね」



 出されたお茶は、見たことのないような色をしていて、嗅いだことのないような匂いをしていた。


 わたしはお茶に手を付けずにその場で待機し続けた。

 さほど待たずに、電話がかかってきた。


 わたしの話を覚えていないのか何なのか、老女は普通に電話を取ろうとする動きを見せたが、わたしの方が先に受話器に手が届いた。



『あー、もしもし』電話から若い男との声がした。『オレオレ。オレだけど、あのさー、まだ金が届かないって向こうがさー』


「ええ、それなんですけど」わたしは言った。「そのことについて詳しくお聞きしたいことが」


 直後、ガチャッと乱暴に受話器を叩きつけるような音が聞こえ、電話が切れた。


「すいません、切れてしまいました」わたしは言った。「掛け直したいんですけど、息子さんのお宅の電話番号ってどちらになります?」


「息子、の家、ですか?」老女は言った。「息子は、今、寮に、入っております」


「寮?」


「はい、全寮制の、高校に、行くことに、なり、まして」


「高校?」わたしは言った。「息子さんって、高校生なんですか?」


 わたしがそう言うと、老女は棚の上に置かれていた写真立てを持ってきて、わたしに見せた。


「これが、息子、です。入学式の、ときの、写真で、して」


 わたしはその写真を見た。


 そこには写っていたのは、おそらく場所はどこかの学校の正門の前で、そこに立っている少年の姿だったのだと思う。

 なのだと思うが、実際のところはよくわからない。


 その写真は相当古くに撮られたもので、全面が色褪せて印画紙も掠れていて、なにが写っているのか鮮明に見分けることなど、とても出来なかった。





                 ◆◇◆




 わたしはそれからしばらく老女の家で待ったが、結局その後は、電話がかかってくることはなく、夜になってわたしは帰宅することにした。


 帰宅したわたしは、電話帳を開いて、あの老女の家の番号を探り、家の電話機からそこへ架けた。


『もし、も、し』電話からあの老女の声が聞こえた。『どちら様、でしょ、う、か』


「もしもし」わたしは言った。「オレオレ、オレだけど」




 ――ああ、そうそう。昼間話した事故の件だけど、あれ示談金は要らなくなったよ。被害者がいい人でさ。ちゃんと謝ったら許してくれたんだ。ああ、うん。だからもう大丈夫だよ。うん。勉強もちゃんとやってるよ。クラスメイトもみんな優しくてさ、友達もいっぱいできたよ。うん。うん。いや、そんな心配いらないって。オレはこっちで、元気にやってるからさ――

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