38日目 『バックザモン』


 過去に読破した本を再読していると、時折このような感慨に襲われることがある。


 ――これは、本当にこのような話だっただろうか?


 人生の経過によって、同じ物語でも異なる解釈が生まれたり印象が変化したりと言ったことは当然起こり得る。だが、わたしの場合は物語自体が記憶と食い違っているのだ。登場していた筈の人物が出てこなかったり、起こっていた筈の事件が発生しなかったり……


 そういった事態に出くわす度、恐らくわたしの記憶のほうが間違っているのだろうと、考えるようにした。わたしは小説などを読んでいると、頭の中で勝手にストーリーを膨らませてしまう癖があり、そうしたわたしの空想と実際の物語が混同されたのだろうと、そう解釈して受け流すことにしていた。


 その日も、同様の事態に出くわした。


 その日は、本ではなく映画だった。3年前にスクリーンで見た映画が、テレビで放映されていた。わたしは自宅の居間でそれを見ていたのだが、途中からわたしの記憶にあるストーリーとは全く異なる展開が繰り広げられていた。

 普段だったら、わたしの記憶違いで受け流していたところなのだが、その映画については引っかかる部分が一つあった。

 その映画を鑑賞した後、別の人物とストーリーについて話をした覚えがあったからだ。





                 ◆◇◆





 3年前のその日、季節は夏だった。

 炎天下の中を汗だくになりながら歩き、映画館についたわたしは、売店でアイスティーを購入し、スクリーンへ向かった。

 指定された座席に着いてしばらくすると、館内の冷房で身体が急速に冷え、わたしは冷たい飲み物を購入してしまったことを後悔したことを、今でも覚えている。


 そして温かい飲み物を購入し直そうかどうしようか悩んでいるうちに、映画が始まった。


 それは、おおよそこのような粗筋だった。


 主人公は一人の若い男。その男は数日前に仕事を解雇されたばかり。生活の糧を得る術の無い男は、いっそこのまま盗賊になろうかと思いつめるが、そこまでする勇気はないと自嘲する。そんな折、その男が何かの建造物(確かどこかの城壁の正門だった気がするがそこはよく覚えていない)の軒先で雨宿りをしていると、そこの2階に人の気配を感じ、男は、興味を覚えて上へと足を運ぶ。

 そこには身寄りの無い遺体がいくつも捨てられており、その中で、一人の老婆が若い女の遺体から髪を引き抜いているのを発見する。老婆の行為に激しい怒りを燃やした男は老婆を糾弾するが、老婆は、抜いた髪で鬘を作って売ろうとしていた、と自身の行いを説明する。老婆は、自分の行いは確かに悪いことかもしれないが、それは自分が生きるための仕方の無い行いであり、生きるために仕方が無く行った悪行は、咎められる所以はない、といった論調で自説を唱える。当初は正義感から怒りを燃やしていた様子の男だったが、老婆の演説シーンから態度が急変する。そして最終的に男は老婆を組み伏せて衣類ををはぎ取って、そのまま漆黒の闇の中へ消えていく。男が画面の奥へと走り去っていき、画面から姿が見えなくなり、スクリーンが黒一色に染まると、そのままスタッフロールへと流れ込み、映画が終わる。


 わたしは見終わった後、大きな感銘を受けたことを覚えている。舞台設定や登場人物の配置には隙がなく、“生きるための悪”というシリアスなテーマに挑戦し見事な達成を見せていると思った。


 わたしは満足して席を立とうとし、確か、その直後だった筈だ。


 わたしの隣の席で号泣し、嗚咽を漏らしていた、あの男に気づいたのは。






                 ◆◇◆





「いやあ、すいません先程は」男は言った。「お見苦しいところを見せてしまって」


 あの後、号泣する男にわたしはハンカチを貸したが、男は一向に泣き止まず、段々と過呼吸を起こし始め、わたしはその場でしばらく男を介抱することになった。その後、ようやく落ち着いた男と、話の流れで映画館近くのカフェに行くことになった。


「このハンカチ、ちゃんと洗濯して返しますので」


 男は涙と涎と鼻水でぐちゃぐちゃになったわたしのハンカチを見せながら言った。

 わたしは「いえ、それは差し上げます」と言った。


「しかし、何故あんなに泣いていたんですか?」わたしは言った。「泣くような話でもなかった気がしますが」


「まぁその、個人的な話なんですけど」男は言った。「主人公の男と、あの老婆がですね、亡くなったわたしの父と母にそっくりだったんですよ」


「ははあ」わたしは言った。「それはそれは」


「あの二人を見てたら両親のこと思い出しちゃいまして」男は言った。「で、その二人が最後に争ってるのを見てたら、なんか泣けてきて……」


 男はまた目元を潤ませはじめた。わたしは「お察しします」と言いながら、近くの紙ナプキンを男に手渡した。

 それからしばらく鼻水を紙ナプキンに排泄し続けた後、不意に男がこのようなことを言い出した。



「自分、思ったんですけど」男は言った「あれだったら最終的に、ってラストにしたほうが良くないですか?」


 わたしは「それだと主題がぼやけてしまうのでは」と言ったが、男は一歩も引かなかった。


「いや、絶対そっちのほうが面白いし、後味も良くなりますよ」男は言った。「もし将来タイムマシンに乗る機会があったら、わたしはこの映画の制作前の時間に戻って監督を説得してやりますよ」





                 ◆◇◆





 そう、確かこのような話をしたのだった。この映画のラストは男と老婆が争い、男が老婆から服を剥ぎ取って消えていく。そういうストーリーだった筈だ。


 だが、テレビ画面から流れるその映画のストーリーはこうだった。


 途中まではわたしの記憶しているシナリオ通りだった。流れが変わったのは、老婆の演説シーンの直後。老婆を糾弾しようとする男を、突然現れた別の男が止めに入ってきた。突然現れたその男は「あなたが怒りを感じているのは、あなたがあの老婆を愛しているからだ。愛する人が悪事に手を染めているという事実が許せなかったのだ」といったようなニュアンスのことを気取った台詞回しで語り、そこからなんやかんやで主人公の男は老婆に愛の告白をし、老婆はそれを受け入れ二人は結ばれる。

 その後、途中で割って入った男が、実は未来からやって来た“主人公の男と老婆の間にできた息子”であることを示唆するシーンが入り、そこで映画は終了した。




 その男は、わたしがあのとき映画館でハンカチを渡した男と、非常によく似ていた。

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