36日目 『ご自由にお持ち帰りください』
その日、わたしは食料品店で買い物をした帰りに、ある小さな衣料品店の前を通りがかった。
その衣料品店は、不要になったと思しきハンガーを、『ご自由にお持ち帰りください』と書かれた張り紙の付いた段ボール箱に入れて店先に置いていて、過去にわたしも、通りがかった際に二度ほど貰って帰ったことがあった。
貰ってばかりでは悪いので、何か買って帰ろうかと思ったこともあるのだが、店の外から店内を覗いた限りでは、わたしが普段着用している衣類とはあまりに方向性が違うタイプの品を扱っている様子で、結局店を利用したことは今まで一度もなかった。
ただ、その日は店先にハンガーが積まれた段ボール箱だけでなく、別のものも置かれていた。
乳母車だった。
『ご自由にお持ち帰りください』と書かれた張り紙が、直接セロハンテープで車体に付けられていた。
「ちょっとそこのアンタ」
「はい?」わたしは言った。「何でしょうか?」
「おう、アンタちょうどええところに来たな」乳母車は言った。「アンタ、ワイのこと持ち帰りぃや」
「いや、いいです」わたしは言った。「うちには小さい子供もいませんし」
「まぁ、まぁ、そう言いなさんなや」乳母車は言った。「損はさせんって、ホンマに」
その後もわたしと乳母車は「いいです」と「まぁまぁ」のやり取りを8往復ほどこなし、最終的にわたしは乳母車を押して家路を歩くことと相成った。
◆◇◆
乳母車はどうやらかなり話し好きの性格らしく、歩いている最中も延々とわたしに何かを喋り掛け続けてきた。
「どうやアンタ、ワイの押し心地は」乳母車は言った。「塩梅ええか? ん?」
「そうですね」わたしは言った。「スムーズに車輪が回転してると思いますよ」
「そうやろ? ワイなぁ、こう見えて結構いい値段するんやで」乳母車は言った。「ん? そういやアンタ、ずっと買い物ブクロ腕に提げてるけど、それ何や?」
「これですか?」わたしは言った。「米ですよ」
「何や早よ言いや、重かったやろ」乳母車は言った。「ちょうどええやんけ、ワイにそれ載せて運びぃや」
わたしは確かにその方が楽だなと思い、米の袋を乳母車に積載した。
「おっ、ええ感じの重さやな」乳母車は言った。「何キロの米や? これ」
「10キロです」
「10キロかぁ。あれやな、ちょうど1歳から2歳位の子供の体重と同じやな」
「そうなんですか? 詳しいですね」
「当たり前やがな。ワイ、乳母車やで?」乳母車は言った。「それよりどや? ワイに米積んだらアンタもだいぶ楽になったやろ?」
わたしは「そうですね」と言いい、乳母車は「せやろ」と言った。
◆◇◆
それからしばらく家路を進んでいくと、乳母車が急にこんな事を言いだした。
「なぁ、これから公園に行かへんか?」
「えっ、公園ですか?」
「せや。近くに一つくらいあるやろ?」
「あるにはありますけど」わたしは「わたしの家とは逆方向なんですが」
「まぁまぁちょっとくらいええやんけ」乳母車は言った。「せっかくええ天気なんやしちょっとくらい寄り道したほうが得やって」
その後、わたしと乳母車は「いやでも」と「まぁまぁ」のやり取りを16往復ほどこなし、最終的にわたしは道を引き返して公園まで足を運ぶことと相成った。
◆◇◆
公園に辿り着いた時、時刻は午後二時を幾らか回ったところだった。
天候は晴天で風もなく、園内は多くの子供連れで賑わっていた。
乳母車を押しているせいか、親御の方々からは、同類を見る視線がわたしに向けられたが、乳母車の中身が赤ん坊でなく米袋であることに気づかれると、同類を見る目は一瞬で異物を見る目へと変化し、それからすぐに意図的に視線を外されるたしようとして扱われるようになった。
「なんかあんまり歓迎されてない様子なんですが」
「そりゃアンタあれやがな」乳母車は言った。「アンタ、ワイにくっついてる『ご自由にお持ち帰りください』の張り紙そのままにしてるからやろ」
わたしは、そういえばそうだったなと思い、張り紙を引っ剥がして、丸めて近くのゴミ箱に捨てた。
しかしながら、その後も周囲の親御の方々からの扱われ方は特に変化しなかった。
わたしは「そろそろ帰りません?」と言ったが、その度に乳母車は、あの遊具が見たいとか何とかと注文を付け、結局空が夕焼けに染まるまでわたしは米袋を積載した乳母車を押し続ける羽目になった。
◆◇◆
それから公園を後にし、ようやく家の付近まで辿り着いた頃には、もう夜の帳が下り始めている頃合いだった。
「いやぁ今日は楽しかったなぁ」乳母車が言った。
わたしは「そうですね」と言いながら、持ち帰った後、この乳母車をどういった用途で使っていくべきなのかを検討していた。
そんな時だった。
「ホンマありがとな。助かったわ」乳母車が言った「あとはもう、そのへんに捨てといてもらったらそれでええから」
「えっ」わたしは言った。「どうしたんですか急に」
「ワイな、ホンマはあの店先から離れたかっただけやねん」乳母車が言った。「そのためにアンタを言いくるめただけやねん。持ち帰っても、なんの役にも立たんて」
「店先から離れたかった?」わたしは言った。「どういうことです?」
「ワイな、あの服屋をやってる夫婦に買われてんけど」
「はい」
「ワイのことよく見てみ」乳母車が言った。「ワイ、使い古しの中古品とかに見えるか?」
「いや、見えないですね」わたしは言った。「未使用の新品に見えます」
「せやねん。ワイ正真正銘、未使用の新品やねん」
乳母車は言った。
「つまりな、未使用の新品の乳母車が不要になったっちゅう、そういうわけなんや」
それからしばらくの間、沈黙があった。
どれくらいの時間だったかはよく覚えていない。
先に口を開いたのは乳母車の方だった。
「あの夫婦も、さっさとワイのことなんて処分すりゃいいっちゅうのに、ものを大事するタイプだったんか知らんけど、捨てずに店の前に置いて、誰か欲しい人に譲ろうとしてたんや。でもなかなか貰ってくれる人がおらんで、ワイ、何日も店先に置かれたままでなあ。そんであの夫婦、仕事中にワイが目に入る度に、なんとも言えん顔すんねん。ワイももう居た堪れなくなってな。そんでアンタに声かけたっちゅうわけやねん」
乳母車が話し終わるのとほぼ同じタイミングで、わたしは自宅の前に辿り着いた。
「アンタにはホンマ感謝しとるわ」乳母車が言った。「あとはもう粗大ゴミにでも出してくれれば構わへんから」
「いやいやそんな」わたしは言った。「じゃあこうしましょう。また張り紙を付けて、うちの玄関先に置いておきましょう」
「いやええって。そんなことしても無駄やて」乳母車は言った。「商店街に置かれてるときかて、全然持ってかれへんかってん」
「多分場所が悪かったんですよ」わたしは言った。「この辺の住宅街は結婚を期に移ってきた若い夫婦とかもいますし」
「ホンマええって。どうせあかんよ」乳母車は言った。「あれやねん。ワイ、デザインがあんんまシュッとしてへんから」
その後もわたしと乳母車は「ええって」と「まぁまぁ」のやり取りを32往復ほどこなし、最終的にわたしは家の中からノートとペンとセロハンテープを持ち出し、ノートのページを一枚破り取り、そこに『ご自由にお持ち帰りください』と書いて、それをセロハンテープで乳母車の車体に貼り付けた。
「無駄やと思うけどなあ」
わたしは玄関先の、交通の邪魔にならなさそうな位置に乳母車を設置した。
「まぁまぁそう言わずに」わたしは言った。「あなただって、どうせなら本物の赤ん坊を乗せてみたいでしょう」
◆◇◆
その次の日の朝。
わたしが庭の掃除をしながら、玄関先に目を向けると、あの乳母車が無くなっていた。
代わりにあの乳母車に付けていた張り紙が、近くの壁に貼り付けられていた。
そこには『ご自由にお持ち帰りください』の下に、『もらいます。ありがとうございます』という新たな一文が書き加えられていた。
わたしは安堵した。きっとあの乳母車は、それを必要とする人のもとにちゃんと受け渡されたのだろう。
それからしばらくして、わたしはあの乳母車に米袋を載せたままにしていたことに気がついた。
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