第1話 継続性の原則⑤


 午後五時。

 埼玉県のとある研究所。


 ホールの一角にひたすら紙をめくっている一団がおり、反対側には静かに待機している別の一団がいた。

 山と積まれた段ボール箱の中にぎっしりと納められた紙をめくっているのは、会計検査院の職員だ。


 会計検査院は税金を使用して活動している団体、省庁や公共団体、独立行政法人だけでなく、補助金を受けて活動しているすべての団体の調査をし、税金の使途が適当かどうかをチェックする国の独立機関だ。

 財務省の管理下にあると誤解されることもあるが、その存在は憲法に規定され、立法たる国会、行政たる内閣、司法たる裁判所のどれにも属さず、独立して調査をする権限を持っている。


 調査対象が膨大になるため、団体によっては税務署の定期税務調査と同じく、数年に一度の単位で定期検査を受けることになる。


「関係者以外は立ち入り禁止なんです!」


 二人が向かったのも独立行政法人の一つで国立研究開発法人だ。

 扉の前にいた警備員の制止も無視して、二人は会場に入ってくる。


栴檀せんだん、いつも思うんだが、それで大丈夫なのか?」

「問題ない」


 警備員とは会話をせず、ズカズカと検査官のいるスペースまで進んでいく。

 蘇合に栴檀と呼ばれたスーツの男は、右手に市販の携帯食を持ち、歩きながら食べていた。


「健康に悪そうだな」

「必要な栄養は満たしている」

「そういうことを言っているんじゃねえ」


 蘇合が呆れかえって肩をすくめる。


「はい」


 栴檀は食べ終わった包装を蘇合に渡す。


「俺は付き人じゃねえよ」


 蘇合は不平を漏らすが、結局はそれを受け取った。

 蘇合が目の前の検査官に渡し直し、とりあえず握らされた検査官はどうすることもできなくなっている。

 その様子にもなんら興味を持たない顔で、栴檀は検査官に告げた。


「データを確認しにきました」

「だ、誰ですかあなたたちは」

「実地監査のサポートに来ました、JMRFのものです」


 栴檀がスーツの内ポケットから、黒い手帳を取り出す。


「栴檀と言います」

「俺は蘇合だ」

「J、JMRF?」


 要領を得ない返答をした検査官に、責任者と思われる検査官が歩み寄る。


「いやいや、わざわざありがとうございます」


 責任者のへりくだった態度に、検査官だけでなく、検査を受けている職員ですらもざわつき始めた。


「会計データはこちらのコンピューターから」


 検査官が二人を、横長のデスクに並んだコンピューターの一台に案内しようと、手を差し伸べる。


「必要ありません」


 その申し出を栴檀が断る。


「えっ」

「荷物を」

「だから別に俺はお前の鞄持ちじゃねえんだぞ」


 蘇合が左手に持っていた鞄から、一台のノートパソコンを取り出す。

 かなりの軽量型だ。

 会場にあるコンピューターのディスプレイの方が大きく見やすいことは明らかだった。


「あの、やはりこちらをお使いになっては」

「蘇合、セッティングを」

「だからな、俺は」


 検査官を無視して指示を出す栴檀に、蘇合はぶつぶつ文句を言いつつも、言われるままノートパソコンを広げ、LANケーブルをハブに差し込んだ。


「これでいいか?」

「大丈夫です。沈水、準備はできました」

『オーケー』


 栴檀のスマートフォンにメッセージが表示される。


「皆さん、申し訳ありませんが、手を離してください」


 他のコンピューターを使っていた、五人ほどの検査官に声をかける。

 検査官は責任者に顔を向けるが、その通りにしろ、と目で言われたので手を止める。


「ありがとうございます。次は、席を立って、避けてください。蘇合さん、並べて」

「お前覚えておけよ」


 蘇合が誰もいなくなったデスクのコンピューターを接するように並べ直して、栴檀は並んだ五台がすべて見える位置まで下がる。


「お願いします」

『完了、奪った』


 並んだすべてのディスプレイのカーソルが独りでに動き、経理処理のデータが流れ始める。


「な、なな」


 検査官の一人が声を上げた。


「これは、どうなったんですか?」

「今からこいつが『監査』するんだとよ」


 うろたえる検査官に蘇合が親指で栴檀を指す。


「これを、一人で? 五台同時に?」


 五台のディスプレイはそれぞれ別の情報を流している。

 相手先、物品、費目、金額などが予算ごとに違うディスプレイに映っている。

 一つを見ているだけでも数時間はかかるようなデータ量だった。


「黙って、集中力が切れる」


 栴檀が検査官を黙らせる。


「で、でもデータは10万件以上あるんですよ!」

「この方が速い」


 五分ほどが経過した。

 その間、五台ともスクロールは一定の速度で続けられ、一度も止まることはなかった。


「どうだ?」


 栴檀が乾いた目を閉じて、深呼吸をする。


「214件の不正と思われる取引を見つけた」


 数秒後、難なく答えた。


「そうか、内容は?」


 検査官たちはきょとんとしているが、蘇合は驚いていない。


「つまらなかった」

「つまるかどうかは関係ないぜ」

「わかっている。28件、同一業者からの図書カードを購入している。一万円分の図書カードを525枚、定価で買っている。総額は525万円だ。業者は古物取り扱い業者、たぶん金券ショップだ」

「ははーん。定価買いか」

「どういうことですか?」


 検査官が、横にいた職員を呼びつける。


「そ、それは著名人の謝礼用に、はい、複数人へ」


 しどろもどろの職員に、栴檀が首を振る。


「金券ショップで図書カードを定価で買う人間はいない。数パーセントの割引があるはず。もちろん割引で金券を購入すること自体は節約だろうから問題はない、規則上は?」


 横についている担当者も、問題ない、と首を振る。


「金券は定価販売しかしない業者のみの購入に限定した方がいい。こういった隙が生まれる。取引業者とのコンプライアンスをもう少しきちんとした方が……、いや、これは昔の癖だ。我々には関係がない」


 いつも以上の小声で栴檀が言う。


「定価で買ったとすれば、領収書を偽造しているか。いいやこれとは別に担当者がキックバックを受けている可能性が高い」


 領収書は相手方が真正な取引記録を保管していれば正しいかどうかがわかる。

 それよりもわかりにくいのは、購入自体は定価で、それとは別に何かキックバックを受けている可能性だ。

 そうなると、帳簿は真正になる。

 業務とは別な、たとえば取引相手の社長から私費で接待を受けていたり、金品を受け取っていれば発覚のしようがない。


 出張でビジネスホテルに泊まって、個別にクオカードを受け取るようなものだ。

 コンプライアンス上よろしくはないかもしれないが、横行しているのも事実で、それを咎めるほど厳しい会社もそうない。


 ただし、国からの補助を受けている団体は別だ。


「B勘屋じゃねえのか?」

「それはわからない、業者の調査が必要だ。そんなものに手を出すとは思えないけど」


 蘇合の疑問を栴檀がやんわりと否定する。


「B勘屋?」

「領収書の偽造屋だよ」


 会話の要領を得なかった検査官に、蘇合が言い直した。


「はあ、それは」


『B勘屋』は、『B勘定屋』とも呼ばれる。

 領収書は販売した相手方が発行をする。

 しかし、領収書を偽造するものたち、というのが存在する。

 それがB勘屋だ。


 領収書というものは、フォーマットが決まっているわけではなく、各社の自由になっている。

 とはいえ、小さな業者なら、市販の領収書を購入して使うことも多い。

 B勘屋は業者から受け取った領収書と同等の白紙の領収書を手に入れて、手数料を取って、必要な金額を書き込んでくれる仕事屋だ。


「会計操作、脱税だ」


 栴檀が付け加える。


 領収書はよほどのことがない限り信頼される。

 法人印が偽装されていればなおさらだ。

 金額に不審なところがなければ、相手方の帳簿と付き合わせたりはしない。


「現物を見なければわからないが、それに付き合うほど暇ではない。依頼された契約は三十分だ」

「こちとら契約主義なんでね、追加は高くつくぜ」

「普通に考えればキックバックだろう」

「どうなんだ?」


 大柄な蘇合の上からの視線に、検査官の一人はおどおどとしている。


「か、確認してみます」

「いや、いい。この業者の法人番号は知っている」


 栴檀がディスプレイから目を逸らさずに言う。


「暗記してるのかよ」

「当然」


 法人番号は通常『企業版マイナンバー』とも言われている。

 元々登記されている企業は十二桁の会社法人等番号というのがつけられていたが、検索性はあまり良くなかった。

 それに一桁のチェックディジットをつけた十三桁の法人番号というものが作られ、個人のマイナンバーと合わせて、公開されることになった。


 2015年10月から国税庁のページで二十四時間検索することができる。

 個人のマイナンバーとは違うのは、完全公開ということだ。

 会社法人が実在しているかを、インターネットがあればすぐに検索できる時代になったのだ。

 その内部データを、栴檀は記憶しているというのだ。


 栴檀はメガネのツルを右手で押さえる。


「零陵さん、聞いていましたか? 業者の活動履歴を洗ってください、法人番号は……、零陵さん、聞いていますか?」


 返答がない。

 少しの間があって蘇合の携帯端末が震える。

 溜め息をついて、その画面を栴檀に見せた。


『十七時を過ぎたから零陵は帰宅した。あとは僕がやっておく』

「ミスシンデレラめ。沈水、繋がっているんだから口で話せよ、コミュ障かよ」

『わかった』

「何にもわかってねえじゃねえか」


 再度表示された画面を見て、これ見よがしに再び大きく溜め息をつく。

 この行為の意味がわかっているのは栴檀だけだが、栴檀は蘇合の方を見てもいない。


「顔を売るだけの仕事だったな」


 蘇合が肩をすくめる。


「事務総局次長のご指名だ。有益性をテストしているつもりなんだろう」

「金の臭いがしないもんだ。もっと派手なのがいいねえ」

「興味がない。帰ろう」

「はいはい、わかったよ」

「ほ、他の不正取引は?」


 やや興奮気味に検査官が聞くが、それに対する栴檀の反応は薄いものだった。

 視点が定まらずどことなく宙をさまよっている。


「所得税法違反と、消費税法違反。どちらも額が小さいから単純ミス。あとは、おそらく預け金。そちらの規則上は不正だろうけど、犯罪資金とは言えない。単年度会計の弊害か。覚えたから知りたかったらあとで請求書を送っておく」


 聞こえるか聞こえないかの声で抑揚なく喋る。


「じゃ、そういうことで」


 アロハの蘇合が右手だけで取り組み終了後の力士のような動きをした。

 持ってきたノートパソコンを片付け、鞄にしまい込む。


「終わった終わった、さて、夕飯食いに行こうぜ、今日は現地解散だろ」

「要らない、書類の整理をしに戻る」

「お前なー、付き合い悪いぞ」


 蘇合が栴檀の肩を叩くが、栴檀は払うでもなく出て行く。




「あの人たち、何なんですか? 次長の指名だって、聞いてないですよ」


 興奮気味だった検査官がやや落ち着きを取り戻して、二人が出て行った扉を見ながら案内をした検査官に聞く。


「トクシューだ」


 聞かれた検査官が答えた。


「知らないのか。まあこっちと仕事をする機会はそうないらしいから、仕方ないだろう。国から委託を受けた犯罪収益の回収を専門にする、なんだっけな、JMRFとかいう民間企業の特殊債権回収室、『トクシュー』だ」

「民間なんですか」

「回収額に応じて手数料を取っているらしいからな」

「手数料? 国民の税金ですよ!」

「だからだよ。お前、あれだけのチェックをするのに何人、何日かけるつもりだった?」

「それは、二十人で、一週間を」

「それを、さっきのヤツだけで三十分とかけずにやった。人件費を節約するのも我々の仕事のうちだ。我々としては反対する理由はない。民間委託も不正がなければいい、そうだろ?」

「それはそうですが、それにしても、さっきの人は一体」

「さあな、仕事柄、本当の身分は公安並みに秘密らしい。ただ、これはあくまで噂なんだが」


 誰も聞いていないのに、声をひそめる。



「元犯罪者を雇用しているらしい。つまり、この手の犯罪を『する』側のプロだったヤツらだ」

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