エピローグ 再起

エピローグ 再起


 一ヶ月後。


 地下鉄に乗って、栴檀は自宅に向かっていた。


 電車の音がわずかに一定のリズムで脳に響いている。

 騒音というほどではない。

 静かで、心地よい振動だった。


 長いシートの中央に、一人きりで腰を深く下ろして、深い溜め息をつく。

 両目をゆっくりと閉じて、記憶を辿る。


 何が終わって、何が解決して、何が始まって、何が解決しなかったのか。

 それすらも靄の中に隠れて、消えてしまいそうだった。


 ここ数ヶ月の出来事が遠くなっていった。


 検査院からのオファーは保留にしたままだった。

 幸いJMRFから支給されていた給与だけで半年くらいはどうにかなりそうだった。


 回収室こそ解散されたが、国家が関与していた組織だ、自分もそれとなく管理下に置かれているのだろう。

 身分を新しく作ったこともある。

 メディアに公開して報道されてまたぞろ何を言われるかわかったものではない。

 国家を裏切った馬酔木の件を知っていることもあり、何でも好きなことをしていいわけにはならないはずだ。


 そうなればどこか国家機関で働くのが適当だろう。

 それも表舞台に出ない、誰にも詮索されない部署になる。

 他に思いつくところと言えば、公安か、それとも、おそらく名前のついていないような組織がどこかに点在しているのだろう。

 それに比べれば検査院は悪い選択肢ではない。


 いずれにしても、特に指示もない。

 もうしばらくは自由でいい、ということなのだろうと彼は理解した。


 かといって元々ほとんどいない知り合いに会うこともない。

 元回収室の三人の連絡先も知らない。

 空虚のまま日々を過ごして、時々は蘇合に教えてもらった店に行き、一人で食事をした。

 蘇合には出会わなかった。

 たまたまか、蘇合が避けているのかはわからない。


 今日もその一軒に行き、慣れないアルコールを一杯だけ飲んだ。

 少し頭がぼんやりして、不明瞭になっている。

 数ヶ月分のあらゆる事件に関連する数字が自由に踊っていた。


 鯱の家族は保険金を得ただろうか。

 宇佐はどこへ行ったのだろうか、やはり馬酔木の仲間だったのだろうか。

 音が遠くなっていった。


 彼は顔は正面を見据えたまま、視線だけで車両を見渡す。

 静かだと思ったが、理由は明らかだった。

 夜遅いとはいえ都内の地下鉄だ。

 人がいないはずがない。

 それなのに、この車両には自分と、もう一人だけしか乗っていなかった。


 その人物は周囲に空席がありながら、栴檀の真向かいのシートに座っている。


 栴檀よりはだいぶ若いだろう。

 就活中の男子学生のような紺のリクルートスーツを着ていた。

 元からなのか、就活のために染めたのか、髪は真っ黒だ。

 就活に似合わないとすれば、その髪の長さが少し長すぎることだろうか、肩に届きそうだった。


 視線を送った栴檀に今気が付いたようで、目が合った。

 青年は小首を傾げ、無言で、なんですか、という挨拶を送った。

 栴檀も、失礼、とばかりに首を振った。


「冗談ですよ」


 目線を外そうとした栴檀に、青年が声をかける。


「――――さん」


 青年は聞き覚えのある声で、栴檀に聞き覚えのある名前を言った。


 呼ばれた名前は、栴檀と名付けられる前の、本当の名前だ。


 この顔を見て、その名前を知っている人物。

 その名前の人物が、生きていると知っている人物。

 そして、こんな場所で語りかけてくる人物。


 そんな人間は、一人しかいない。


「馬酔木」


 青年は微笑みを崩さない。

 否定ではない、ということだろう。


 馬酔木が自分の目の前にいる。


 最後に見たときと姿は変わっている。

 整形手術でもしたのだろう。

 しかし、確かに身長と声だけは簡単に変えられないようだ。

 そうと認識さえしてしまえば、顔つきも面影が認められる。


 あれから何度夢に見ただろうか。

 もう一度会ったら、何を言い、何をすべきだろうか。

 考えていたことが、霧散した。


 一秒もあれば、触れることができる距離にいた。

 しかし、体は動かない。

 わざわざ自分の前に姿を現してきたのだ、あのとき馬酔木のそばにいた黒服たちがいないとも限らない。

 いや、必ずいるだろう。用心するに越したことはない。


「どうも、お久しぶりです。一ヶ月振りですか」


 あくまで馬酔木は、いつものように、余裕たっぷりで、緊張感がない。


「お前は、誰なんだ」


 問いかけに馬酔木はにこりと笑う。


「あなたの元上司。濡れ衣を着せた張本人。元国家の犬。今やただの逃亡者。さて、どれがよいですか?」


 軽やかな風を受け流すように、平然と言った。


「他人が私のことをどう定義づけるか。私は大変興味があります。私は今までどこにも存在していなかったのですから」


 存在していない、そう馬酔木は自分のことを言い表した。


「そういえば、あなたに初めてあったとき、『死神』呼ばわりされましたね」


 拘置所で出会ったとき、その幻のような儚さに栴檀はそう思ったのだ。


 今はどうだろうか。

 馬酔木は、そのときよりもはっきりと、生き生きとしてさえ見えた。


「私は、これから、何かになろうと思います。私の意思でそれを決めるのです。楽しみですね」

「何かって」


「――では、あなたは誰ですか?」


 切り返された質問に、栴檀は答えられなかった。


 その数秒で電車は減速し、体が引っ張られていた。

 アナウンスが駅に到着したことを告げる。


「もう行かなければ」


 すっと馬酔木が立つ。


 車椅子も杖もない。

 怪我が治ったのか、それとも歩けないというのも最初から嘘だったのか。

 歩き方が自然であることからも、最初から障害などなかったと思った方がよさそうだった。


「そうだ、一応聞いておきますが、我々の『チーム』に来ませんか? これは私なりの答えです」


 前回のときに栴檀が聞いた『こちら側かあちら側か』という質問に対する答えで、馬酔木は『あちら側』を選んだということだ。


 言うだろうな、と内心栴檀は思っていた。

 言ってほしい、という気持ちもあったかもしれない。

 どこかで、自分を買ってくれていたことを言ってほしかったのかもしれない。


 それについて、シミュレーションをしていた。

 色々な論理の道筋があり、それでも答えは一つに収束していった。


「そちら側に『正義』はない」

「それを答えとしましょう。どうも私は部下に恵まれないようですね」


 優しく微笑み、歩みを続ける。


「それではまた。お元気で」


 馬酔木は開いたドアからホームに降りた。


 咄嗟にあとを追おうとしたが、ホームドアの横に例の黒服がいたので栴檀は踏みとどまる。

 車両一つを人払いできるほどのチームだ。

 ここで降りても、何も得ることがない、というのは明らかだった。


 発車のベルが鳴り響く。


 次に会うのはいつになるのか。

 そもそも会うことがあるのか。


 栴檀が声を絞り出す。


「俺は、栴檀だ。栴檀東予、あんたが名前を決めた」


 馬酔木は振り返らなかった。

 振り返らず、後ろ姿のまま手を振る。


 空気の抜けるような音がして、ドアが閉まり、あちらとこちらに分かれた。

 

彼岸と此岸。


「次は捕まえる、絶対に」


 届いていないはずの宣言に、『どうぞ』という馬酔木の返事が聞こえた気がした。







 次の駅で一度降り、電車に乗り直し、回収室跡に栴檀は向かっていた。

 一、二階はすでに深夜で明かりは消えている。


 まだ捨てていなかったセキュリティーカードを差し込み、開いた裏口から一旦地下に行き、専用のエレベーターに乗る。

 カードが失効していないことが意外だったが、誰も管理者がいないのだろうと栴檀は結論づけることにした。


 三階に上がったところで、半開きの回収室から光が漏れているのがわかった。

 馬酔木関連かと身構えたが、聞こえてくる声からその警戒を解いて、部屋に入る。


「よう、遅かったな」


 ドアの一番近くにいたのは蘇合だ。

 手には缶ビールを持っている。

 栴檀を招くように反対の手を上げた。少し酔っているらしい。


「開けといてよかった。まだカード持っていると思ったから」


 部屋の隅でコーラを飲んでいるのは沈水だ。

 手元に彼のノートパソコンがある。

 栴檀のセキュリティーカードが使えるように復旧させたのは沈水だった。


「二人とも、どうして」

「どうしてって、お前と同じだよ。その顔を見ればわかるぜ、あいつに会ったんだろ?」

「ああ、そうか」


 栴檀と同じように、二人も馬酔木に会ったということだ。


「律儀なヤツだよ、挨拶回りまでするとはな」


 栴檀と同じように蘇合にも挨拶と勧誘があったのだろう。


「お前は乗ると思ったぜ」


 振られた沈水が、苦い顔をする。


「勝手に決めるなよ、いや、正直興味はあった」

「そうだろうな」

「別に僕はアナーキストじゃないよ、近いとは思うけどさー。やった結果犯罪者になるならまだしも、向こうについちゃったら、スタートから犯罪者じゃん」

「それなりの報酬は提示されたんだろ?」

「ん、まあな、室長が持っている各国のデータベースとか、まあ、そういうもの。それならおっさんの方が、金は良かったんじゃねーの?」

「はは、これ以上金があったって、影でこそこそ隠れて使うなんて意味がないぜ。そういうのは、お天道様の元で使わなきゃな」

「詐欺師がよく言う」

「元、だ元」


 すっかり二人は意気投合しているみたいだった。


「まーここにいれば、一応は真っ当な職業と呼べるだろうな、会社員だし。石油王にしてくれるんなら別だがな」

「だねー、システムだって、日本の分だけあれば今んところ十分って感じ」


 二人は、今もなお、JMRFの回収室員でもあるかのような言い方をしている。


「お前もそうなんだろ? 栴檀」

「だが」


 スキルはあっても権限がなくなった三人では、今までのような活動ができるはずもない。


「大丈夫です、手続きはそろそろ終わります」

「零陵さん」


 部屋に入ってきたのは零陵だ。

 両手に書類を抱えている。


「我が国と日本政府との高官同士で合意が取れました。前回の防衛省の事件での資料を日本政府が明け渡すことで、我が国はこのケースは不問とすることにしました」


 零陵が言う『我が国』とは彼女本来の所属先であるアメリカだ。


「その話し合いで、馬酔木室長のことも当然議題に上がりました。まだ詰めることもあり、日本政府が隠していることもあるのですが、我々と日本は共に協力をして、彼を確保することになりました」

「あいつはこれで、日本とアメリカ、両方の『国家の敵』になったわけだ」

「室長にとっては、願ったり叶ったり、って感じかなー」

「私は引き続き、特別派遣要員として、ここに留まることになります」


 零陵は、自分のことを二人にも話していたらしい。


「零陵さんは、勧誘を?」

「受けましたが話になりません。私が法を犯すなど、もっとも許してはいけません」

「シンデレラがいれば安心だ」

「仕事ですから」


 いつもの切り返しを零陵がする。


 いつものように、四人が揃っていた。


「それじゃ、頼むぜ暫定室長」


 蘇合が肩を叩く。


「マシン、経費で買い直してくれよな」


 沈水が明るく言った。


「状況を整理する」


 栴檀が目を閉じ、状況を、思考を整理する。


 悪くない。




「回収室を再開する。目的は馬酔木の確保だ」

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