第5話 重要性の原則⑤
「あのな、エリート」
蘇合が屈んで倒れている栴檀を覗き込む。
「なんでいる」
「お、強気だねえ。なんでだと思う?」
栴檀の顔からレンズが割れたメガネを取り上げる。
「俺をつけていたのか」
「それはあいつらだな。俺は、ほら、お前の助けが聞こえたから参上してきてやったわけよ」
「助けなんて、呼んでいない」
「そう言うなよ、悲しくなるぜ」
「それで」
どうして、と言いかけた栴檀に、
「お前、ちょっと先走りすぎじゃないのか?」
上から真剣に蘇合が言った。
「何を」
「暴力担当は俺だろうが、なんでお前が殴られてるんだよ」
「お前がいないからだ」
栴檀が襲われたのは、蘇合と別れてからそれほど後ではない。
相手は二人をつけていたのだろう。
蘇合ではなく栴檀に狙いを定めたのは、単純に体格で栴檀の方が襲いやすかったのか、それとも栴檀の方が危険だと判断したかだ。
「生意気言える余裕があるのはわかったよ」
「ふん」
「鯱か? 室長か?」
「なんだ?」
「どう思うかは自由だが、失点を、他で挽回して帳尻合わせようとするなよ、それはそれ、これはこれだ。するなら周りに相談をしろ、老婆心だ」
「意味がわからない」
「お前はお前なりに正義感を持っているってことだ」
「どちらでもない」
「ほら、拭いてやる」
地面に落ちていた栴檀のポケットチーフを拾って、蘇合が端が裂けて血が出て紫になっている栴檀の口元に当てようとする。
「やめろ」
それを奪い取り、栴檀が自分の口に強く当てる。
真新しい傷口は、かなりの痛みがあり、栴檀は口の端を曲げる。
「消毒もした方がいいな」
「そうみたいだ」
立ち上がり、首を曲げながらストレッチをする。
手のひらを上に向けたので、蘇合はそこにフレームの曲がったメガネを置く。
栴檀はかけることなく、胸ポケットにしまい込んだ。
「病院はどうする?」
「必要ない」
口が切れている以外、栴檀にこれといった痛みはなかった。
骨でも折れているかと指で全身をなぞるが、違和感はない。
相手も最初から殺すつもりではなかったのだろう。
警告くらいに考えていたのかもしれない。
「なかなか思い通りには動かない」
「なんだって?」
「お前の真似をした」
弱々しく両拳を胸の前で構えてファイティングポーズを取る。
「はは、トレーニングが足りないな」
調査中に荒事を何度か見ているが、本格的な格闘をしなければいけないところに遭遇したことはまだない。
「今度トレーニングを頼む、治ったらだ」
「いいぜ、肩を貸すか?」
「大丈夫だ、歩ける」
「うちまでもうすぐだろ、そこまでは送るぞ。また襲われても困るしな」
「いい、回収室に戻る」
「今日ぐらい安静にしろよ、家で寝ておけ」
蘇合の勧めも聞かず、栴檀は腕時計を見る。
「まだ時間はある」
回収室では、十七時直前で、帰ろうと片付けをしている零陵がいた。
「どうしました?」
栴檀を見ても慌てることなく、落ち着いた声だ。
彼女の声を聞いて自席で隠れていた沈水も何事かと出てくる。
「転んで怪我をした」
「子供の嘘かよ!」
蘇合に背中を叩かれる。
「冗談だ」
『いや、わかるよ』
「ちょっと襲われた。傷薬がなかったか」
沈水が触ろうとするのを手で弾く。
「消毒薬を持ってきます」
「あ、シンデレラ五時だぞ」
部屋を出ようとした零陵を蘇合が呼び止め、定時が来たことを伝える。
「放っておくわけにはいきません」
そのまま彼女は出て行った。
「お前には甘いのか?」
「お前に厳しいだけだ」
消毒液とガーゼを持って、零陵が戻ってきた。
ガーゼに消毒液を浸して、栴檀の口元に近づけようとしたところで、手を出す。
「自分でできます」
渋い顔をしながら、顔中にベタベタと消毒液をつけていく。
「零陵さん、もう少し残れますか?」
水がしたたり落ちるほど塗りすぎて、床にこぼしながら栴檀が聞く。
これまで残業を指示したことはなく、彼女も室長にすら指示されたことはなさそうだった。
「え、あー、はい」
彼女が自分の右手首の時計をちらりと見て、逡巡して答える。
「よかった」
ふらふらと揺れて、栴檀がソファに座る。
「おいおい大丈夫かよ、踏んだり蹴ったりだな。殴られ損じゃないか」
「そうでもない」
栴檀が胸ポケットに入れていたツルの曲がったメガネをテーブルの上に置き、右耳にかける部分の出っ張りを押す。
そこから、音声が流れ始めた。
「そうか、メガネか!」
「そう。でも蘇合、静かにしてくれ」
栴檀のメガネは会社支給の伊達メガネで、顔を隠す目的の他に録音機能があり、それで襲われたときの音声を録音していたのだ。
「わかんねえな。なんだこれ」
蘇合が言うのも無理はなく、風切り音の他、聞こえてくるのは低く鈍い音。
『やっぱ痛そう』
音の正体がわかった沈水がコメントした。
栴檀が暴行を受けている音だ。
他にも、メガネに拳を受けたと思われるガチャリという音も入っている。
「殴られているだけの音じゃないか」
「そこではない」
音量を上げて、注意しろと栴檀がメガネを指さす。
三人は気持ちメガネに顔を近づける。
「零陵さん、なんと言っていますか?」
音声を戻して、もう一度再生する。
男たちの会話が、細切れに入っている。
言葉は日本語でも英語でもない。
「これは、インドネシア語です。意味は、すみません、もう一度」
再生をやり直す。
「『十九時の便で国に送る。もうすぐだ』です」
「あいつら、俺のこと殴りながら、どうせわからないと思って勝手に喋ってくれたぞ」
ほらな、と栴檀が肩をちょっとだけ上げた。
「空港へ行こう、運転してくれ蘇合」
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