第一話 貸借対照表②
「おい、栴檀」
「……あ、ああ」
栴檀の浅い眠りは部屋に入ってきた男によって消滅してしまった。
「ったく、俺が必死に働いているときにうたた寝かよ」
栴檀は横たわっていたソファからゆっくりと身体を起こした。
皺になってしまったオーダーメイドスーツを丁寧に手で伸ばしていく。
クラシコイタリアのスーツで、細身の栴檀にぴったりと合い、ウエストは高い位置で絞られている。
度無しレンズの黒縁メガネをテーブルから拾い上げ、耳にかける。
このメガネは外出時に表情を隠すためのもので、スイッチを入れることで録音することもできる。
だから部屋にいるときはかける必要はないのだが、すでに習慣として染みついていた。
年齢は三十二歳で、たった四人しかいないこの部屋の臨時室長をしている。
「ああ、すまない」
仕事場で眠ってしまったことに反省の意味を込めて、軽く首を振る。
夢の記憶はすでに霧となって溶けてしまっている。
確か、小さな頃の夢だった。
最後に誰かに話しかけられた気もしたが、それも夢の中だ、本当に夢で見ていたのか、今そんな夢を見ていたと思っているだけなのか、それすらもうやむやになっていった。
「……いや、まあいいけどよ。ああ、もうクタクタだぜ!」
部屋に入ってきた男は片手で顔を扇いでいる。
夏も終わりに近づいたというのに、いつもと変わりのない、カラフルなアロハシャツを着たラフな格好をしている。
大柄で、全体的に筋肉質だ。
何かの格闘技をやっていたようにも見え、手の節もごわついている。
髪は短く刈り込まれて、それがまた爽やかなスポーツマンとは違い、一層周囲を威圧している。
男は蘇合という名前で、ここの室員だ。
堅気には見えない容姿と立ち居振る舞いだが、事実、蘇合は元詐欺師である。
個人ではなく、主に企業相手に仕入れた商品の代金を踏み倒しつつ、商品を横流しするなどといった取込詐欺を中心に活動していたらしい。
『おっさん、おつかれさん』
ピピッと部屋の窓側に備え付けられている大型の液晶ディスプレイに文字が躍った。
部屋の隅にバリケードのように置かれたデスクの下の隙間から青年が這い出てくる。
青いTシャツとジーンズ姿だが、洗濯しただけのようでどちらもヨレヨレになっている。
蘇合に比べればかなり若い。
頭につけているヘッドマウントディスプレイがガタガタとデスクの角などにぶつかっている。
「おっさんじゃねえって」
自称三十八歳の蘇合が否定するも、言った当人は何が悪いのかがわかっていないのかけろりとしていた。
青年は自称十八歳で、大学に通っている。
青年にしてみれば蘇合はダブルスコア以上だから、おっさん呼ばわりしても仕方ないのかもしれない。
『年上なんだしおっさんじゃん』
蘇合の不平を言葉ではなく、ディスプレイに映る文字で返す。
左腕の袖につけたウェアラブルのキーボードでディスプレイを操作しているのだ。
頭につけたディスプレイを取り外し、顔を露わにする。
見た目は純朴そうにも見える。街を出ればどこにでもいそうな大学生のような風貌だ。
「うるせえひきこもり」
「……そとこもりだ」
聞き取れないほどの小声で彼が反論する。
蘇合と軽口の応酬をしているこの大学生風の男は沈水という。
一見無害な青年に見えるが、元ハッカーで他人のパソコンにウィルスを送りつける愉快犯だった。
銀行サイトを模倣したページに誘導してオンラインバンクのパスワードを手に入れ、他人の金銭を不正に送金していたこともある。
沈水は人と喋るのが極端に苦手で、ほとんどの会話をディスプレイを通して文字で伝えてくる。
最近は回収室での生活と蘇合と栴檀に慣れてきたのか、二人に対してはたまに声に出すこともあった。
「水が必要?」
ソファから離れた席で、腕を組んでいる女が蘇合に声をかける。
タイトスカートでグレーのスーツを着こなし、ロングストレートの髪を後ろで束ねている。
普段からきびきび動き、仏頂面でもあるためキツく見られがちだ。
実際言葉も簡潔ではあるが、本人に悪気があるわけではない。
日系アメリカ人で、アメリカでの暮らしが長かったためだ。
ここでは彼女は零陵と名乗っている。
アメリカで一般に流通している小切手を偽造、行使したとして、国際指名手配されていた経歴があることになっていた。
零陵はその語学力を活かし、国際系の仕事を担当している。
彼女の自称年齢は二十四歳だ。
「いや、いや、いや、勝手に取る。俺の方が近い」
蘇合は申し出を断り、自分でソファ横の冷蔵庫から二リットルペットボトルのミネラルウォーターをグビグビと飲み出した。
蘇合はなぜか零陵を苦手としている。
「ぷはあー。これがビールだったら最高なんだがなあ」
半分ほどを飲み、蘇合が捲し立てる。
「いやいや疲れた疲れた。全力疾走するのも久しぶりだ。別に俺はヤクザじゃないっての、みんなして話も聞かずに走り出しやがって」
蘇合の風体を見て、堅気だと思う方が少なそうだが、と栴檀は思いつつもわざわざ口に出すことはしなかった。
『やっぱおっさんじゃん』
「回収は?」
「そうだった」
栴檀の質問に、蘇合はボストンバッグを床に下ろす。
「ほらよ」
ドサリと中身の詰まった音がした。
『おおー』
沈水が手を叩いて感心している素振りを見せた。
『ヤクザに転職したら? 天職じゃない?』
「今も似たようなもんだろ」
『そりゃそうか』
ここは、Japan Money Reseach & Found、略称JMRFという民間の財務系調査およびコンサルタント企業の一部門である特殊債権回収室だ。
栴檀、蘇合、沈水、零陵の四人がここに所属している。
外部の関係者には『トクシュー』などとも呼ばれている。
その性質から周囲からはまるで忌み語のようにひそひそと噂をされている『トクシュー』だが、内部では単に『回収室』と呼んでいた。
現在、回収室の室員は臨時室長である栴檀を含めて四人しかいない。
もっとも、発足からの最大人数でも五人しかいなかった。
しかし、ここは場末の窓際部署ではない。
むしろ、この回収室がこのJMRFの本体と言ってもいい。
「げ、もう十二時過ぎてるじゃねーか。昼飯に行こうぜ!」
一息つき、時計を見た蘇合が音頭を取ったが、三人の反応は今ひとつだった。
「いや、いい」
栴檀が断る。
「空腹ではありません」
『別にいいや』
と残る二人も拒否をする。
「おいおいお前ら、ここ半年で打ち解けてきた感じがあっただろ。昼飯くらい一緒に行こうぜ」
JMRFの中に回収室が設立されて半年が経とうとしていた。
JMRFそのものが政府肝煎りで作られた民間企業だ。
国からの出資はないが、社長は財務省からの天下り役人が就いている。
この企業の主な業務は、個人や企業に対して取引先の財務上の調査を行ったり、あるいはコンサルティングと称して財務の健全化のアドバイスをしたりすることだ。
「な、回収は順調にいったんだ。少しくらい褒めてくれたっていいだろ」
わざとらしく蘇合が手を合わせる。
回収室はその名前の通り、JMRFの業務の一部である『債権回収』を主に行っている。
JMRFでは『焦げ付きそうな』債権を安値で買い取り、代わりに回収をする業務をコンサルタント業務の一つとして、行っている。
『債権』とは、誰かが誰かに対して持っている金銭的な権利で、対になる言葉は『債務』だ。
正しい期日に正しい金額が手に入れば問題ない。
しかし、相手に金がなければ、ない袖は振れず貸した金が返ってこなくなってしまう。
この状態を『焦げ付く』というが、焦げ付きがあまりに多くなると、財務上の売上や利益があっても、現金がやってこないということで身動きが取れなくなってしまう。
いわゆる黒字倒産という状態だ。
それらの債権を現金で買い取り債権者の資金繰りを改善しつつ、債務者へと赴き、財務の健全化を指導するという一連の業務をJMRFでは行っている。
「一人で行けばいい」
栴檀はそばに置いてあった読みさしの報告書を再開し、取り付く島もない。
「そんな冷たいこと言うなよ。今回は結構足を使ったんだぜ」
風貌に似合わず、蘇合は懇願するように三人に言った。
「まずは報告書が先だ」
にべもなく言い放つ栴檀に、捨てられた子犬のような瞳で訴えかける。
「まあまあ、あとでいいだろそれは」
蘇合が栴檀から報告書を取り上げ、テーブルに置き直す。
その報告書には『偽造クレジットカードによるATMからの全国同時不正引き出しの回収について』と書かれてあった。
彼ら回収室が担当している債権は、通常の債権ではない。
詐欺、横領、脱税、営利目的誘拐などの犯罪によって奪われた『犯罪被害者』の金だ。
現在の日本では、被害回復給付金支給制度というものがあり、犯罪者から金品を回収できた際には、それを被害者に分配することになっている。
しかし、犯罪者はすでに使ってしまっているか、誰にもわからない場所に隠したまま黙秘をするかで、金が回収できないことが多い。
しかも経済犯罪に対しての刑罰は軽く、数年で出所してしまうケースがほとんどだ。
出所後も被害金を請求することはできるが、そもそも出所後の人間に多額の金を請求しても返ってくるケースは少なく、消息不明になってしまうことすら多々ある。
被害者にしてみれば泣き寝入りをするしかなく、犯罪者にしてみればある程度のまとまった金が手に入るなら数年刑務所に入ったとしても旨味がある、というわけだ。
このように、被害者に相当不利な状況が続いていた。
過去には、住宅供給公社で一人の人物による14億円を超える巨額の横領が発覚した際に、結局6千万円弱しか回収できなかったという事例もある。
その現状を打開するため、JMRFの中に回収室が設立されたのだ。
回収室は各省庁、捜査機関と連携をし、犯罪によって奪われた資金の回収に専念するのが仕事だ。
「仕方ない」
栴檀はようやく諦めて立ち上がった。
「お、行くか?」
楽しそうに蘇合が手を合わせて鳴らす。
栴檀は、様子を窺っている残りの二人に目をやった。
「零陵さん、沈水、昼食にしよう。業務命令だ」
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