第五話 注記表および附属明細書④
「まずは、キアッソ事件についてだ」
「債券のか?」
蘇合が鷺が言っていた二人を思い出したようだ。
二人とは、存在しないはずの本物の米国債券を日本から持ち出した財務省職員だ。
最終的な行き先予定はドイツだったという。
「日本の外貨準備の話は知っているか?」
零陵はうなずいたが、蘇合は知らない話題だっただようだ。
「あーいや、できれば説明してくれると助かる」
経済に明るくない蘇合が説明を求める。
零陵と栴檀が視線でやり取りをするが、結局栴檀が説明をすることになった。
「円とドルなどの為替が好ましくない方向に変動したときに、為替操作に使うための外貨のことだ。その額は百兆円以上の規模になる」
現在日本では為替は市場に任せる変動相場制を取っているが、極端に円高や円安に振れたときにそれを調整する機能を日銀が持っている。
たとえばドルとの関連なら、円安ドル高になれば、手持ちのドルを売って円を買い、円の価値をドルに対して上げる。
反対に、円高ドル安なら、円を売ってドルを買い、円の価値を下げる。
円なら日銀がその量を調整できるが、外貨ならその外貨を発行している中央銀行が担当しているので、その外貨をあらかじめ持っていなければいけない。
円高に移すために外貨が必要になるのだが、ここ最近はそもそも円高になり続けているので、必然的に円を売り続け、外貨を買い続ける、という状況があり外貨準備は増え続けている。
「おいおい、なんだか話が大きくなってきたな」
これまで回収室で扱っていた事件の単位がせいぜい億だったが、いつの間にか兆になっていることに蘇合が驚きつつ、話に聞き入っている。
「外貨準備はお互いの国の持ち合いだ。持っているからといって、一方的に大量に売買することは国際政治上好ましくない」
輸出国にとっては、自国通貨が安い方がメリットが大きい。
ほとんどの工業先進国は輸出国であるので、自国通貨を安くするような政策を取っている。
為替は相対的なものであるから、どこかが下がれば、どこかが上がることになる。
「外貨準備の一部である米国債券も政治上の役割がある。手元に金がないから市場で売る、というわけにはいかない。特に力関係がある場合は」
栴檀は暗に日本がアメリカに対して強く出られないことを含ませている。
「日本の外貨準備のうち、金のおおよその保有金額は三兆円以上だ」
栴檀が言う。
「そしてそれが保管されている場所は?」
「アメリカ、ニューヨークの連邦準備銀行、もしくは各国の金はケンタッキー州のフォートノックスの軍施設にあります」
栴檀の視線を受けて、零陵が答えた。
「そういうことだ。保有しているといっても、日銀の金庫に保管されているわけではないし、国会議事堂にあるわけでもない。日本が持っているはずの金は、アメリカの金庫にあるはず。これは他国も似たようなものだ」
栴檀は、はず、を二回も言い、強調をする。
それが仮定にしかすぎないことを強調しているのだ。
「ここで二つ目、偽物の金だ」
今度は人差し指を立てたまま、栴檀は中指も立て、2を表した。
「こういう噂がある。アメリカの銀行にある外貨準備金として各国が保管している金塊は、本当は偽物で、つまり、このコインと同じようにタングステンと金メッキでできた紛い物だという話だ」
「それはただの噂です。我々アメリカはきちんと保管を……」
零陵が、アメリカの代理人であるかのように否定をした。
「では真偽のほどはさておき、偽物だったら、という仮定で話を進めよう」
「偽物なんだな?」
零陵に配慮をした言い方に、蘇合が蒸し返して聞く。
「おそらく、大部分はそうだろう、と考えている。それが偽物の金の話だ。そして三つ目、行先ドイツ。キアッソ事件で二人が最終的に行こうとしていた国だ」
「それはわかっている」
蘇合が返す。
「疑惑の金について、実は過去にドイツが行動を取っている。ドイツも日本と同様、金を他国に預けていた。しかし、数年前、アメリカを含む各国がその金の存在確認を拒否したことから、自国内に金塊を置くか、そうでなければ金塊を売却するという方針に切り替えた。帳簿上アメリカに続く世界第二位の金塊保有国が、だ」
「その二人はなんらかの交渉をしにドイツに行った、ということですか?」
零陵が聞く。
ドイツはすでにアメリカの金塊について疑心暗鬼になっているし、行動を開始している。
「可能性だ。決定的な情報をドイツが掴んでいたのかもしれない。それを債券を手土産に情報交換をするつもりだったのかもしれない。なにせ、債券に関しては、日本もアメリカを信用していないのが明らかだからだ」
日本はアメリカにある帳簿では信用ならないから、紙での証券を担保として発行させたのだ。
あげく、日本では財源不足から、外貨準備である米国債券を埋蔵金として売却して財源に充てるべき、という議論まで出たことがある。
「アメリカに保管されているとする日本の金が、実は実体のないもので、偽物だとしたら、どうなると思う?」
「三兆円とやらがパーになるな」
蘇合が答える。
「それだけでは済まされない。失われるのは、アメリカだけでも、日本だけでもなく、地球にある国家すべての信用だ」
「ですから、アメリカは」
なおも噂にすぎないと零陵は言い張る。
「零陵さんは本物を見たことがありますか? 延べ棒を削って確認をしましたか?」
「……いえ、遠目に見ただけです」
連邦準備銀行はツアーイベントを行っていて、抽選で選ばれれば一般人でも遠くから金塊を見ることができる。
もっとも、触ったり、ましてや削って本物かどうかなどを確かめることはできない。
「では、零陵さんの言うように、アメリカにある金が本物だとしてみましょう。だが現実は次のフェイズに移っています」
栴檀がその先を言わず、ここにいる誰かに言わせようとしていた。
零陵が答えにくそうに口を開く。
「その事実を、なんとしてでも世界中から隠し続けている、ですね」
「そしてそれを考えている、願っているのは誰ですか?」
「それは……」
「秩序の上の方にいるみんなだ。アメリカも、日本も、他の国も、国のトップにいる人間たちはこの事実が表に出てくることは避けたいはずだ」
零陵が答える前に、栴檀が自分で言った。
「そりゃあ、こんなこと知られたら大混乱になっちまうな」
蘇合がうなずく。
自分で説明しながらも、USPと馬酔木を結びつけることで、栴檀の頭に一つの考えが浮かび、形を作りはじめていた。
「ここからはあくまでも、自分が馬酔木だったら、手持ちの駒で何をしたいか、何ができるか、だが」
「言ってくれ」
蘇合に促され、栴檀が続ける。
「USPは金の現物を集めていた。どの規模かはわからない。今わかっているものも、すべてではないだろう」
USPの代表である牛囃は現物主義で、信者から集めた現金を貴金属に替えていた。
なかでも金は優先して集めていたことがわかっている。
「馬酔木はそれが欲しかった。もしくは、馬酔木の指示で牛囃が集めていた」
どちらが先だったかはわからない。
馬酔木が牛囃のことを利用できると思ったのか、最初から馬酔木の一味として活動をしていたかもわからない。
「何らかの方法でアメリカから流出したその金も含まれているかもしれない。むしろ、馬酔木が盗んだ張本人である可能性もある。沈水……、ああ、蘇合、牛囃の金塊の保管場所は知っているか?」
問われた蘇合はふるふる首を振った。
「USPの情報を集めていた沈水なら知っているかもしれないが」
「そうか。しかし、USPの情報は大鳳からのものがかなり含まれていたようだ。知っていたとしてもどこまで信用していいかわからない」
「そうだな、元光の戦士の情報だからな」
「いまや円もドルも金本位制ではなく、信用貨幣だ。これは『みんなが使っているからみんなが使える』という類のものだ。これはつまり」
「仮想通貨と同じか」
「そうだ。発行している中央銀行の信用ががた落ちになれば、貨幣はただの紙くずになってしまう。ハイパーインフレだ」
「ジンバブエとかですね」
かつては金本位制といい、金と交換できることが貨幣としての価値を担保していたが、現在ほとんどの国で使われている貨幣は『中央銀行が発行するから価値があることになっている』という信用のみで成り立っている。
「そこで四つ目、仮想通貨だ」
親指以外を立てて、栴檀は続ける。
「馬酔木はアメリカの金が偽物であることを知っている。これを何らかの方法によって、市場にバラす。すると当然市場は混乱する。とくに、各国の通貨に混乱が生じる」
「信用貨幣なのにか?」
ほとんどの通貨が金に依存しているわけではないことを、蘇合が指摘した。
「信用貨幣だからだ。ほんの少し信用を毀損すれば、針の穴さえ開けてしまえば、あとはダムが崩壊するのを眺めるだけだ」
栴檀が一呼吸置いて続ける。
「各国の通貨が全面的に安くなることはある。どこかの国の通貨を売り、別な国の通貨を買えば通貨から通貨へ価値が移転するだけだが、通貨そのものに信用がおけないようになれば、金や銀、あるいは石油などといった現物資産が買われるようになる。だが、その有力な交換先である金が実際に目で見て手に取って分析しないと真正のものである保証がなくなる。そうすれば、どうなる?」
「仮想通貨の需要が増える、というわけですね」
零陵が感心したように即座に答えた。
「そうです」
「そこでユーコインか」
蘇合にも話が繋がりはじめたようだ。
「牛囃は、『集めている金は本物だ』とわざわざ言っていた。それなのにユーコインのこの金貨がメッキだとすると、何かしら含意するものがあると推測できる。もちろん、傍証に過ぎないが、アメリカにある金が偽物だと言いたいのかもしれない」
「ふーむ」
蘇合はにわかには信じられないような顔をしていた。
「だがよ、世界一の軍事力を持つアメリカさんが、そんなことをしてるヤツを放っておくとは思えないんだが」
「馬酔木をアメリカが捕まえるということか?」
アメリカ側の零陵が、やや不本意そうに一度溜息をついてから言う。
「こればかりは擁護できませんが、むしろ、爆撃でもなんでもして殺すでしょう。今は馬酔木一人ですし、個人では大した危険もないでしょうから放っておかれているかもしれませんが、そんな大それたことをやらかすようになったら、四の五の言わず、なりふり構わず大義名分をでっちあげてでも攻撃するでしょう」
「本当だとしたら、アメリカもそれくらいは考えているだろうし、それに対抗する策を馬酔木も考えているだろう。とはいえ、これは仮定の話だ。あとは直接聞くしかない」
「そうだ……、ん、待てよ?」
同意しかけた蘇合が、言葉を止める。
「どうした?」
「あの嬢ちゃん、よく考えたら馬酔木との指定場所を言ってねえぞ」
「……確かに」
大鳳が残していったのはユーコインだけだ。
「ったくどうするんだよ。沈水のスマホはここにあるしな」
蘇合が頭を掻いている間に、部屋の隅で機械音がしたことに零陵が気が付く。
「これを見てください」
零陵が二人を呼んだ。
沈水のパソコンが勝手に起動している。
自動で地図ソフトが開き、ポインタが点滅をして一箇所を指していた。
「どうやっているんだ? あいつ?」
どうにかして沈水が遠隔操作をしているらしいことはわかった。
そして、その点滅はすぐに消えてしまった。
「今はそれは忘れておこう。そこは馬酔木のマンションだ」
そこに表示されている住所を見た記憶があった。
栴檀は、鷺が以前持ってきたファイルを取り出す。
外観の写真が数枚と、冊子になったものがまとめられている。
冊子の方には全部事項証明書も含まれていた。
冊子を栴檀がめくり、蘇合が写真を見て、お互い顔を合わせる。
「現在はUSPの関連会社が所有者になっている、と書かれている」
「いよいよ隠すつもりもなくなったってことか」
所有者は法人となっている。
USPと馬酔木の関係はこれで決定的になった。
「行くしかない」
「栴檀さん、これは罠以外の何物でもないですよ」
零陵が忠告をする。
「わかっているが、それ以外の選択肢が今のところない。あるか?」
「いいや、ないだろうな」
蘇合は否定しかできず、首を振った。
「内調にも協力を依頼しよう」
「いや」
それを蘇合が短く拒否した。
「そうか。そうだな、一人でいい」
要求されているのは栴檀だけだ。
栴檀と沈水の身柄を交換するために、他の人間が行っても仕方ないだろう。
一歩ドアに進もうとした栴檀の前に、蘇合が右足を差し出し、邪魔をする。
「すまないな」
「なんだ?」
「一応、謝っておく」
蘇合は申し訳なさそうな顔をする。
「どうした?」
「まあ、お前のためだと思ってくれや」
そう言い、蘇合は栴檀のみぞおちを思い切り殴りつけた。
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