第1話 継続性の原則

第1話 継続性の原則①


 午前十時。


 春も過ぎ、気温も外を出歩くのに悪くなく、長袖から半袖に切り替えた人がちらほらと街を歩いている。


 東京大田区、東京でも町工場が林立しているエリアだ。

 その一つの工場の日常に異質なものが混じろうとしていた。


 鉄粉の臭いが立ちこめる工場内には十人弱の作業員が働き、それぞれに工作機械を操っている。

 作業場はバスケットコート一面分よりやや広い500平方メートルほどだ。

 作業場の脇にはドアがあり、窓ガラスを通して事務所が見える。


 機械音が鳴り続ける中、開いているシャッターからどかどかと立ち入ってきたのは黒いスーツを着込んだ男女だ。

 六人のスーツ姿の彼らの表情は険しく、軍隊さながらに規律正しく整列しているようにも見えた。


「全員手を止めてください!」


 スーツの集団は正三角形の陣を取り、頂点にいるサングラスをしたおかっぱ頭の女性が大声を上げる。

 一度では声が聞こえなかったようで、二度、三度、と叫ぶ。

 ようやく手を止めた作業員たちが、訝しげにスーツたちを見る。


「手を止めて。社長さんはおられますか!」

「何なんだ、あんたら!」


 工場の最奥にいた老年の男が動作中の機械を止め手拭いを置き、口火を切って大声をあげた女性のところまで駆けてくる。

 髪を刈り上げた作業着の男の年は六十を過ぎているだろう、長年機械を触っていたと思われ、両手は骨張り、擦り切れていた。


「社長、なんかこの人たちが勝手に」


 不安がる作業員を庇うように、社長と呼ばれた老年の男が割って入る。


「熊田製作所の熊田社長ですね」

「誰だあんたら」

「あなたが熊田社長ですね」


 集団の先頭にいる女性がサングラスを外し、確認する。


「そうだがなんだ、取引か? 押し売りなら帰ってくれ」

「違います」


 おかっぱの女性と社長が向かい合う。

 女性の方が身長が低いため見上げる姿勢になっているが、威圧的な社長に負けじと胸を張っている。


「じゃあなんだ、銀行か? 悪いがお前らから金を借りるほど……」

「知っていますよ。決算書によると直近三年ではわずかながら黒字。資本金の規模から見ても、売り上げは大きく、事業は安定しているようですね。七割弱が赤字企業のこの国において大変結構なことです。スペースシャトルの部品をNASA及びJAXAから依頼されるほどの高度な精密機械が主力製品ですか、誇らしいですね」

「あ、ああ、うちらくらいしか作れないからな」


 褒められて社長の厳つい顔が多少緩んだ。


「で、あんたらは?」

「我々は東京国税局査察部です。法人税法違反の疑いで調査に来ました。当該法人の七年分の帳簿を出してください」


 語気を強めて、二十は離れているだろう男に決然と言いつける。


「ぜ、税務署ぉ?」


 頓狂な声を出した社長にも怯まず、後方に控えていた査察官が工場中央部へと入っていく。


 彼らは国税局査察部の職員、通称『』だ。

 税務署職員であり、脱税が疑われる案件に対して裁判所の令状を得て強制調査を行う国税査察官である。


 かつて有名監督によって映画化されたこともあり、一般的にも知名度は比較的高い。


「おい、お前ら」

「はい、動かないで! 以降は私たちの指示に従ってください。指示なく動いた場合は、そこ! 机から手を離して!」


 工場内から見える事務室にいた中年女性に、きつく声を飛ばす。


「従業員の皆さんは、一箇所に集まってください。どうか、余計なことを考えないように。経理と社長は帳簿の準備をしてください」


 六人の査察官が二手に分かれて、一方は従業員の方に、他方は女性職員について事務所に入ろうとする。


「おいおい! やめろ!」


 事務所に入ろうとした女性マルサが複数の従業員に立ちふさがれてしまった。


「何か問題でもあるんですか? 脱税の証拠でもあるんですか?」

「あ、あるわけないだろ!」


 従業員の中でも年配と思われる男が彼女を押し返そうとする。


「そうですか、では調べられても大丈夫ですね」

「それは違うだろ」

「やましいことがあるんですか?」

「それは……、ないが」

「結構、ではそれを確認させていただきます」


 眼力で従業員を退け、彼女は事務室に入っていく。

 工場内に張り詰めた空気が流れてきた。



「やーやーどうもどうも皆さん」



 それを打ち砕いたのは陽気な男の声だった。


 査察官たちの後ろから、新たに男が手を振りながらやってきた。


 男はラフな恰好で、ハワイ土産かと思うほどカラフルな刺繍が施された半袖のアロハシャツを着ている。

 旅行帰りと思われても仕方ないような出で立ちで、適当そうな空気をまとっている。


 査察官のスーツと対照的だ。


 アロハの男は短い眉で愉快そうに笑っている。

 身長は高く大柄で、顔にさえ筋肉がついていそうで、肘から伸びる腕を見てもなんらかの運動、おそらく格闘技をしているのがわかる。


 見た目はほとんどチンピラだ。


「な、なんだお前」


 声を上げたのは作業員ではなく査察官の一人だった。

 作業員たちはその声と査察官が揃って不審そうな顔をしたことから、このアロハのチンピラが査察官でないことを悟った。


「おーい、入れ入れ」


 だが、アロハは査察官にも作業員にも目もくれず、外に振り向いて手を振る。

 周りがあっけに取られているうちに、そのアロハの手引きで、もう一人がやってきた。


 アロハに呼ばれた男は戸惑いもなく、足取りも一定のリズムを刻み入ってきた。

 アロハとは反対に前髪が長く、表情は正面からは読み取れない。

 三十代だろうか、黒縁のメガネをして、その奥の瞳は髪とメガネで二重に隠れて確認できそうにない。


 男は無言でアロハの横に立った。


 アロハに比べれば場違い度はやや低い。


 査察官たちと同じようにスーツを着ているが、そのスーツの質が違う。

 男は細身のイタリア製オーダーメードスーツを着こなしていた。

 吊るしのスーツではない、一着で数十万は必要なものだ。

 濃紺のジャケットは高い位置でウエストラインが絞られている。

 中に着込んでいるシャツも無地ながらイタリア製で、ウィングチップと呼ばれるクラシックなブラウンの革靴を履いている。

 クラシコイタリアと呼ばれるスタイルだ。ご丁寧に白のポケットチーフまでつけている。


 アロハがチンピラなら、こちらのスーツの男はマフィアの若旦那といった風貌だ。


 スーツの男は誰にも挨拶をせず、アロハに言われるまでもなく事務室に入り、査察官が持っていた帳簿を取り上げて勝手に広げだした。


「今時紙の帳簿か」


 スーツがぼそりと落ち着いた声で言う。


「検索できないと面倒か?」


 少し離れていたアロハが嘲るように言った。


「関係ない」


 スーツが返す。


「お、おい、お前!」


 ようやく正気に戻った女性マルサが帳簿を取り返そうとするが、ひらりとかわしてまた読み始める。


「何しているんだ! というかお前ら誰なんだ! 勝手に入ってくるな!」


 アロハとスーツの二人以外の全員が思っていたことをようやくマルサが絞り出した。


「え、連絡ないの? 坊ちゃんマジかよ」


 アロハが笑顔のまま首を傾げる。


「なんだと?」

「おーい、坊ちゃん」


 突然アロハが誰かに呼びかけるように口に手を添え、天井に向かって話しかけだした。

 触れてはいけない人だったのかと、別な意味での緊張が現場に走る。


『大変申し訳ありません。連絡が行き届いていなかったようです。私から直接電話します。一分ほどお待ちください』


 アロハとスーツの頭に声が響く。

 二人は左耳にイヤフォンをしていて、そこでどこかしらと通信をしているようだ。


「サンキュー坊ちゃん、早くしてくれ。というわけで一分待ってくれ」


 手のひらを査察官に向けて制止する。


「ああ? 公務執行妨害で」


 二人にイヤフォン越しに聞こえた声はもちろん査察官には届いておらず、立腹した彼女が他の査察官と一緒に二人を排除しようとしていた。


「あの、すみません……」


 が、さらに詰め寄るマルサの後ろに、若い男性マルサが携帯電話を持ってくる。


「電話です」

「今大事な……」

「ダメです、局長です」

「え、あ?」


 電話の相手は東京国税局のトップ、局長だ。

 一般の査察官宛に直接電話が来ることはまずありえない。


 彼女は呆けながらも電話を受け取る。


「はい、はい、はい、え、どうして、はい、ええ、わかりました」


 さっきからの高圧的な言動と異なり、彼女は恐縮しっぱなしで、相手が見えもしないのに何度も腰を曲げている。


 彼女が電話を切り、大きく深呼吸をする。

 気分を切り替えたのか、屈辱を抑えつつ、震える声で二人に相対する。


「……協力を、お願いする」

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