第一話 貸借対照表⑤
「ん? なんだ電話か?」
四人が食事を終え、回収室に戻ってくるとすぐに、待ってましたとばかりに内線が鳴り出した。
電話の近くにいた零陵が受話器を取り、一言二言やり取りをする。
「訪問者だそうです」
受話器を置いて、振り返った零陵がそう言った。
「訪問だって?」
「回収室に?」
蘇合に続いて、栴檀も疑問の声を上げた。
回収室に客が来ることはまずない。
少なくとも発足以後、一度も来たことはなかった。
「アポなしかよ」
蘇合が肩をすくめて言った。
それも無理もない。
一般人には知名度がないが、回収室は組織名も設置場所も関係者なら知っている。
しかし、直接訪れる者はいない。
事件が起こるたび、金になると思えば勝手にやってくると思われている組織だ。
それに各国家機関の機密情報も扱っている。
アポイントメントを取ろうとしても、容易には許可されないだろう。
「社長も許可を出したそうです」
「ああ、あの天下りオヤジが?」
建前は民間企業だが、JMRFは政府肝煎りで立ち上げられた会社で、回収室はその中枢だ。
そのため、社長は財務省からの天下りでやってきた男だ。
慎重派といえば聞こえはいいが、小心者の役人気質が抜けていない。
邪魔をしないだけの有能ではない男、というのが栴檀の評価だった。
「となると、どこからだ?」
蘇合が首を捻る。
「どこかの役所だろう」
元役人がアポなしの人間を通すのだから、相手は役人だと栴檀は推測した。
それに、民間からの仕事は回収室は受けていない。
「誰だ?」
蘇合に聞かれた零陵は、少し発音しにくそうに、ゆっくりと丁寧に言った。
「それが、内閣、情報調査室だそうです」
「なんだそりゃ?」
「内閣情報調査室、略称は内調、平たく言えば、日本のCIAだ。それ以上の詳しいことは知らない」
首を傾げた蘇合に零陵に代わって栴檀が説明する。
「CIAだって? スパイか?」
少し楽しそうな顔で、『スパイ』という言葉を蘇合は口にした。
「情報機関の一つだ」
そうこうしているうちに、部屋のドアがノックされた。
こちらが返事をするまでもなく、ドアが少しだけ開き、その隙間からぬるりとスーツ姿の男が入ってきた。
「内閣情報調査室の鷺という」
死者のように青ざめた男が下を向きながら言った。
男はぴったりと髪を七三に分け、栴檀と対照的な安物のスーツを着ている。
黒の礼服でないのが唯一の救いといってもいい。
礼服であれば、仕事中の葬儀屋の社員にしか見えないほどの陰気さだった。
そんな男の右手には、アタッシュケースが握られている。
「あ? 詐欺だって?」
「……いや違う、鳥の、鷺だ」
低い、ぼそぼそとした喋りが死者の雰囲気を一層際立たせている。
「君たちに依頼したいことがある。どうも我々では手に余る案件のようだ」
鷺は誰に言われるでもなく、回収室のソファに座った。
対面には栴檀が座る。
零陵はその背後に立ち、沈水は自席に戻り誰からも見えない位置にいた。
「ほらよ」
「かたじけない」
蘇合が冷蔵庫から出したペットボトルのお茶を鷺が妙な言い回しで受け取り、キャップを開けて一口飲んだ。
その間に蘇合は栴檀の横に座る。
「我々は、国内外の組織に、国家に対して危険な動きがあるかどうかを調べている。君たちが事後の事後の処理をする組織だとすれば、我々は事前の事前、事件にすらならない段階での危険性を様々な角度から調査、分析している組織だ」
ぶつぶつと聞き取りにくい声で誰とも目線を合わせず鷺が言う。
「で、その事前の事前のスパイ組織が俺たちに何の用なんだ?」
蘇合がやや揶揄した言葉にも、声を荒立てることなく対応する。
「我々は決してスパイというわけではない。ときどき潜入捜査をすることもあるが、基本は書類の整理ばかりだ」
謙遜なのか本心なのか、地を這うような重苦しい声でスパイであることを否定した。
「それに殺しのライセンスも持っていない」
最後の言葉はジョークのつもりだろうが、この人物ならあるいはと思わせるような陰気さがあった。
「我々は君たちが探しているものについて、いくつか情報を持っている」
「探している、だと?」
栴檀がメガネの奥の目を細める。
他の二人にもやや緊張感が走った。
その空気を気にしていないのか、どういう反応をするのかわかっていたのか、受け流すように、鷺は口調を変えず、低い声で告げた。
「そう、馬酔木についてだ」
馬酔木。
鷺によって言葉にされ、栴檀の目はさらに細くなり、蘇合は右手で額を掴み、零陵は組んだ腕に力を込め、沈水は部屋の隅で一人口角と肩を上げた。
馬酔木、フルネームは馬酔木由紀という。
元回収室室長で謎多き人物だ。
栴檀をはじめ四人をスカウトし、回収室の立ち上げに携わるも、政府を裏切り、ロンダリングした2億円とともに行方をくらませてしまった。
回収室の面々は通常の仕事の傍ら馬酔木を探していたが、情報はなしのつぶてだった。
足がかりも得られない状態で、そもそも最初から馬酔木など存在していなかったように、霧の先に消えていってしまった。
回収室が馬酔木について知っていることといえば、資産家であった馬酔木家の子供を名乗っていたこと、見かけは二十歳前後であること。白髪で細身、柔らかい物腰で、足に障害を持ち車椅子で生活していたこと、それくらいだ。
もっとも、最後に栴檀が馬酔木に逢ったときは髪色は黒くなり、杖もなく自然と歩いていたため、髪の色と障害があったことは偽装だった可能性が高い。
鷺が重々しく口を開いた。
「彼は、あるプロジェクトによって造られた存在だ」
「プロジェクト?」
聞き返したのは零陵だ。
鷺は眉も動かさずに続ける。
「そうだ、政府の様々な省庁が関係していた。才能ある子供を徹底的な英才教育によって育て、政府に益となる人材を造り出すプロジェクトだ。その第一世代、ようやく果実ができあがったと判断されたのが、馬酔木だ」
「馬酔木は何をしていた?」
なるべく平静を保ちながら、栴檀が尋ねる。
秘密裏に育てなければいけないうえに、そこで成長した人間は影の人物だ。
その人物に任せるのは真っ当な表舞台の仕事ではないだろう。
「彼は経済、特に金融のスペシャリストとして育成された。日本に敵対する、敵対しそうな国家、地域に滑り込み、経済面で破壊、操作する企画立案や指揮命令をしていた」
「スペシャリスト、か」
「君たちはスペシャリストのスペシャリストだと聞いているが、彼は一人で何でもこなせるように訓練された人間、ゼネラリストのスペシャリストといったところだ。彼は政府の求めに応じて転戦し、経歴を変え、名を変え、外見を変え、策略を練り指揮をしてきた」
「つまり、本当の『馬酔木』ではない?」
回収室では馬酔木由紀と名乗っていた人物。
彼らの調べで、資産家であった馬酔木家が火事に遭い、その際に残された子供が馬酔木由紀だった、というところまでは判明していた。
鷺は栴檀の確認に、ゆっくりと首を縦に振って言う。
「ああ、あの火事の件か。そうだ、あれは単純な事故だと聞いているが、たまたま流用できる戸籍が一つ空いたために、利用したようだ。あの事故で本物の馬酔木由紀は死んでいる。だから当然あいつの本名ではない。が、ニュートラルに使っていた名前だ。コードネームというのが近いかもしれない。馬酔木家自体がこのプロジェクトに関与していたらしいという情報もある」
その経歴自体を栴檀たちも完全に信じていたわけではないが、鷺の言葉を信じるのであれば、当時、火災で死んだのは馬酔木由紀を含めた三人だということになる。
元室長はその死んだ由紀を生かしたことにして、戸籍を利用した別な存在になる。
ポン、と音がして、壁掛けディスプレイに文字が表示される。
『じゃあ、あの室長って、結局何者なの? 本当の名前は?』
「これは?」
「ああ、沈水だよ」
不思議そうにしている鷺に、蘇合が部屋の隅を指差す。
「ああ、まだいたんだったな。ネット関係のスペシャリストか」
鷺は沈水のことは書類上では知っていたらしい。
『そうだよー』
鷺は質問の答えとして首を横に振る。
「そこまではわからない。どこかの孤児なのか、プロジェクトのために用意されたのか。我々も他に呼び方がないため、今も便宜上『馬酔木』と呼んでいる」
「どうして、我々にそのことを?」
鷺は回収室よりも政府寄りの組織の人間だ。
馬酔木に関するそのような事情は、政府でもごく一部しか知りようのない情報だろう。
回収室に漏らしていい権限が鷺にあるようには思えない。
鷺は唇を広げることなく、触れただけで寿命が縮むような冷たい吐息をついた。
「内閣情報調査室の面々は、各省庁から出向している者も多い。私は財務省からの出向組だ」
栴檀が鷺の言葉で気づく。
「派閥争いか」
「そうだ。思想の相異とも言う。各国の経済的な管理方法について、いくつかの考え方がある。馬酔木を造ったチームは、その中でも急進的な者たちだ。現実として結果を出していたために、あまりおおっぴらに批判されることがなかったが……」
「風向きが変わった、ということか」
下を向いていた鷺が更に下に向いて首肯する。
「防衛省での事件が明るみに出ることで、状況が変わった。チームの一部が馬酔木の能力を利用して私腹を肥やしていることがわかり、またアメリカとも不要な緊張を持たせてしまった。馬酔木側の派閥は主流派ではいられなくなったということだ」
栴檀が公認会計士だった時代、監査をした会社と防衛省が取引をしていた。
その会社と防衛省の取引の中で裏金が作られたのだが、それが発覚する直前に、馬酔木は栴檀を横領犯としてスケープゴートにしながら、栴檀を拘置所から助けるためと騙し、監視も込みで回収室に所属させた。
この際に蘇合、零陵、沈水が犯罪者として関わり、発覚前に馬酔木に見出され、無罪放免の取引条件として回収室に所属することになった。
裏金作りが馬酔木の自由意思でなかったことはこれで明白になった。
回収室に四人を集めたのが彼の『チーム』の意思だったのか、それとも馬酔木が『チーム』から逃亡するために用意したのか、それは今となっては直接対峙しなければわからない。
「今の馬酔木は? 居場所を知っているのか?」
まだ使い道があると判断して、そのチームとやらが馬酔木を囲い、または支援している可能性がある。
もしくは、鷺側のチームが、追い続けているかもしれない。
「我々の調査では、そのチームが今も関わっているとは思えないとの結果が出た。もっとも、これがどこまで信頼に足りる情報かはわからない。居場所も杳として不明というのが現状だ」
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