トクシュー! ―特殊債権回収室― /吉野茉莉

NOVEL 0

トクシュー! ―特殊債権回収室―

プロローグ 再起

プロローグ 再起


 東京拘置所。


 満開の桜が自慢げに咲き誇っているが、壁で覆われて薄暗い光しかないここでは外の様子を窺い知ることはできない。

 暖かな春の陽気とは対照的に湿り気のある冷たい風が渦を巻いて留まっている。


 一室で男がうずくまっていた。


 目の下には隈ができ、視線は虚ろで畳の床と壁の境目付近をさまよっている。

 掻き毟った髪はボサボサになっていた。


 力なく口を動かし何かを発しているようだが、部屋の外には聞こえない。

 声が漏れたとしても、聞いている人間は誰もいない。


 年齢は三十代の初め、筋肉質ではないが、ひ弱そうにも見えない。


「何があった」


 つぶやきは膝に当たって霧散していく。

 行く当てのない呪詛が壁にめり込んでいった。


 男は記憶の海を泳いでいた。


 業務上横領。


 それが男の罪名だった。

 担当する企業が行った国外送金の数字を操作し、ペーパーカンパニーの架空口座をリレーさせ、40億円をスイスにあるプライベート銀行に入金していた容疑だった。


 男には覚えがなかった。

 実行するタイミングもなければ、考えることすらなかった。

 取り調べでは散々男はそう言った。


 だが『事実』は違った。


 男が署名した書面が自宅から見つかった。

 送金記録が銀行から報告された。

 オフショアに設立した男名義の活動実態のないペーパーカンパニーが発見された。

 会ったこともない『関係者』が警察、検察に証言をし始めた。


 対抗するのは、男の「やっていない」という言葉だけだった。


 やっていないことを証明するのは不可能に近い。

 悪魔の証明を要求されてもどうしようもないことは知識としては知っていたが、まさか自分に降りかかるとは思わなかった。


 百人が見れば、百人が男がやったと思うだろう。

 それほどまでに『証拠』が揃いすぎていたのだ。


 メディアはすでに事件を報じているだろう。

 何しろ40億円という巨額の横領事件、面白おかしく伝えるにはうってつけの話題だ。

 男の否認の言葉は、『見苦しい言い訳』としてでも載っているのだろうか、と自嘲気味に考えていた。


 男には身内も親しい友人もいなかった。

 庇ってくれる人間は思い当たらない。


 無能な同僚たちはここぞとばかりにあることないこと吹き込んでいるだろう。

 それも協調性のなかった自分の自業自得か、とまた一人で笑った。


 もしも自分に罪を押しつけた人物がいたとしたら――当然、いたのだろうが――ここまで考えていたはずだ。


 この人生で不要だと切り捨てていた人間関係が、素気なく接してきた人間たちが、まとめて泥を投げ始めてきたのだ。


 なすりつけるにはうってつけの人物だったというわけだ。

 男には孤立無援という言葉が適切だった。


 一体自分はこの先どうなってしまうのか。

 控訴、上告をして最高裁まで争うか?


 そのたびに、証拠のない妄言を繰り返す人物として話のネタにされるだろう。

 人々は墜ちた天才とでも嘲笑うのだろうか。

 能力があるゆえに、その能力部分だけは認めざるを得なかった凡庸な人間たちが、『やはり』という枕詞で自分を酒の肴にして、己の人生の空虚を満たそうとするのか。


 無言を通して、あるいは早々に罪を『認めて』刑に服するか?


 自分が思うように、自分はそれほど馬鹿ではない。

 勝ち目がないことは重々理解している。

 納得はしないとしても、勝てない勝負に向かっていくほど無鉄砲ではない。

 今まで向いていない勝負は最初から避けていたから、今のような事態に適切に対処する方法が思い浮かばない。


 男はどちらかを選択することはできる。


 いずれにせよ、これは『詰み』だが。


 もはや戦う気力も朽ち果て、絶望の固い底に立つ男が下世話なメディアの見出しを想像するくらいしかできることもなくなったとき、


 ガチャリ、


 と音がした。


 おもむろに男は顔を上げる。


 時間感覚はすでになくなり始めていた。

 どうせまたぞろ不毛な取り調べでも始まるのだろうと思っていたが、どうやらそうではなかった。


 入ってきたのは、いつもの正義感を放棄し定型動作をするだけの年老いた男性職員ではなかった。


「お忙しいところ、失礼いたします」


 透き通る声でそう挨拶をしたのは、この場におおよそ似つかわしくない青年だった。


 顔つきは端正だが影は薄い。

 儚げに見えるのはその顔つきの幼さのせいではなく、青年が絹のような白髪で、病院で患者が着るような簡素な服から伸びる腕は小学生のような細さだったからだ。


 そして青年は右手に銀色の杖を持ち、車椅子に乗っていた。

 まるで亡霊だと男は思った。


「だっ……」


 誰だ、と言いかけた男は、喉が渇いていて声が詰まってしまった。


 男が唾で口を湿らせている間に青年は先に口を開ける。


「私は、アシビ、動物の馬に、酒に酔うの酔う、樹木の木で馬酔木あしび、と申します」


 頭を下げて、丁寧を通り越して慇懃無礼とも思える自己紹介をした。

 動きに合わせて細い白髪がさらさらと揺れている。

 男の見ている幻覚ではなさそうだ。


「どう……」

「経歴は拝見させていただきました。六歳にして暗算検定十段に合格、中学生で公認会計士試験にも合格、大学を飛び級し、大学院の修士課程を修了。二十二歳で監査法人に就職、三十歳にはシニアマネージャーに昇格、お間違いないですか?」

「……ああ。間違いがあるとすれば、会計士だったのは先月末までだ」


 ふさぎ込んだまま、男は残された自意識を失わないように努めて冷静であろうとし、青年がそらんじた男の経歴を訂正する。


「それは失礼。珠算検定は合格していないようですね」

「そろばんはやったことがない」

「なるほど、ではどのように計算を?」

「見ればわかる」


 幼い頃から男は数字を覚えるのが得意だった。

 生まれ持った天性の才能として、一度見た数字は忘れない、という性質があった。

 記憶をしているのだから、計算をするのも容易いと気が付いたのはすぐだった。


「噂に違わず、大変優秀ですね」


 青年は言葉の上では感心してみせたが、その茫洋とした表情から本心は読み取れない。


「さて、本題に入りましょう」


 畳の上を青年が杖で叩く。

 トスンと藺草がへこんだ音がした。


 その柔らかな音とは反対に、狭い室内の空気の色が変わり、会話の主導権が完全に青年に奪われてしまった。


「調書もすべて読ませていただきました。証拠はすでに十分、もはや言い逃れはできない、といったところですね」

「違う。言い逃れじゃない。やってない。嵌められたんだ」

「ほう、そうですか。では誰に、ですか?」

「……それは、わからない」

「あなたが無実だということを証言してくれる人物がいますか? あるいは、裁判で有利になる証拠がありますか」


 青年の問いかけに男は弱々しく首を横に振る。


 ここから出たとしても無実の証拠を見つけられるかどうかはわからない。

 しかし、少なくともここから出ずにできることは何もなかった。

 それは何度も思考した結果、男自身が導き出していた。


 改めて他人に言い渡されて、男はまた目の前が暗くなった。


「あなたは死にます」


 つい、と溜めもなく青年が宣言した。


「……なんだって?」

「あなたの罪状は業務上横領ですから、刑期は最大で十年です。40億円を横領したことに対する罰としては、少々軽すぎると思いませんか? 私はつくづく日本は財産犯に甘い国であると認識しています」


 同意を求めるでもない、演説でもない青年の淡々とした口ぶりに男は返す言葉もない。


「……やってない。罪の重さなんか、関係ない」


 青年が言いたいのは、刑期の話でないことは男にもわかっていたが、口から漏れ出たのは自分の無実を願う言葉だった。


 青年は、男の言葉を受け流さず、優しく口元を緩ませて首を振った。


「いい加減、現実を見ましょう。もし、あなたを嵌めた人間がいたとして、出所後にあなたを放っておくと思いますか? 何の後ろ盾もないあなたではありますが、もしかしたら独自に調査をしてしまうかもしれない。私が報道を見る限り、あなたの行為に疑問を持っているマスコミはいないようですが、もしかすると刑期中に面白がって取材をするマスコミがいないとも限りませんね。そうするとどうでしょう、あなたにこんな罪をなすりつける人物、組織が、刑務所内で何もしないとは言い切れないですね」


 青年は男を慰めているのでも、諭しているのでもない。


『現実』という、脅しだ。


 なおも青年は続ける。


「何をもってあなたに濡れ衣を着せたのかはともかくとして、40億円もの金額を動かし、無実の人間に完璧な有罪証拠を用意する存在です。おそらくそれなりに資金力があるでしょう。伝手もあるでしょう。人を殺すことくらい、ためらわないのではないでしょうか。なにせこの不景気の世の中、幾ばくかのお金を約束すれば喜んで人を殺すような人間は珍しくないですからね。それがたとえ、刑務所の中という公的な閉鎖空間であっても、です」


 青年が不安の種を植え付けようとしているのがありありと感じられた。


 なぜ自分を嵌めたのか、誰が嵌めたのか、までは男も考えていたが、その先までは気が回っていなかった。


「そうか」

「何がわかりましたか?」

「あんたが、その死神か」


 若くて細い、幽鬼のような美しい青年は、自分の命を終わらせに来たのだ。

 男はそう確信した。


 死ぬ、という現実に直面しても、恐怖はあまり生じなかった。

 むしろ男に湧いてきた感情は安堵に近かった。

 恐れと絶望の底が抜け、途方もない闇に落とされていた男に明確な『終わり』という存在がやってきた。

 鈍い色をした光であることには間違いがない。


 だが、それは暗闇の中では一条の光であった。

 心臓を預けるのであれば、この白髪の死神こそふさわしいと思えた。


「ふふふ、私が死神ですか。いやこれは失礼」


 おかしくてたまらないという顔で、青年は杖を持った手で口を隠した。

 今更ながらここで声が漏れてしまってはいけない、とでも言いたげだった。


「ある者には死神に見えるかもしれませんね。でも、今、あなたに対しては違いますよ」


 絶望と安堵と諦観がない交ぜになっていた男に、青年は死神であることは認めつつも、そうではないと男の考えとは真逆のことを言った。


「私は、あなたを救うことができます」


 紡いだ無色透明の青年の声が、救いに聞こえた。


「救う、だと?」

「私は――いえ、私たちはあなたの能力を高く買っています。あなたの能力を存分に発揮する環境を、あなたの安全を確保する手段を、私たちは提供することができます」

「私、たち?」


 青年は男の問いかけには答えない。


「私たちは、あなたのように、特殊な才能をお持ちの方を歓迎し、勧誘しています。もちろん合法的な組織です。ここに私がいることから、それはおわかりでしょうが」


 自分に罪を被せた組織が刑務所内でことを起こすかもしれない、と脅した直後とは思えない台詞だった。


 とはいえ、青年の言葉を信じるとすれば、それに乗るしか方法はなさそうだった。


 ここにいてもできることは何もない。

 呪詛を言い続け、懲役か不慮の死かのどちらかを待つだけだ。

 まずはここから出ること、それが何よりも大事だ。


「何をすれば」


 この言葉を青年は同意したと受け止めたようだ。

 青年は満足そうにうなずく。


「ありがとうございます。受けていただくということで」


 青年は杖の先端を彼に向ける。

 男の額にざらりとした感触が伝わった。


「仕事は」


 かすかに、青年は微笑んでいるように見えた。


 その表情は妖しく、やはり青年は死神なのだ、と男は思った。


「宝探し、です」

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