第四話 株主資本等変動計算書④
「ふーむふむ、あーなるほど、そういう事情かあ」
牛囃の死と国家側による隠蔽が起こっていると知っても、大鳳は平然とした顔をしていた。
「それは私とはあんまり関係なさそうだなあ。とりあえずさ、その話はおいておいて、私がここに来た理由、続きを話していい?」
大鳳が馬酔木からのカードとともに置かれていたというUSBメモリスティックを右手に持って振った。
『それ、中身はなんだったの?』
「私はセキュリティにちょっと詳しいの」
「それはさっき聞いた」
ソファにうずまりながら投げやりに蘇合が言った。
「で、ある種の仮想通貨の取引に脆弱性があることを発見して、延々、もう本当に延々と時間をかけて探った結果のデータを集めたのがこれ」
「ユーコインもですか?」
「もちろん対象。で、さあてどうやって公表しようかな、と思ったところで家に空き巣が入ってパソコンがおじゃん」
『物理で殴られたわけだ』
大鳳はネットセキュリティの専門家だ。
ネットを通して大鳳のパソコンに侵入するのは容易くないだろうが、物理的には探そうと思えば自宅も探すことができる有名人だ、家に押し入って破壊しようと思えば、相手はただの女子高校生でしかない。
「そいつはどれくらいの価値があるんだ? つまり、そいつを公開されたら馬酔木は困るのか?」
蘇合の質問に、大げさに大鳳が首を捻った。
「それがねえ。微妙なところなんだよねえ」
「微妙?」
大鳳は曖昧な答えをしたので蘇合が聞き返す。
「私にとっては研究成果だからもちろん大事なんだけど、いずれ誰かがこの脆弱性を見つけるだろうし、うーん、価値があるのか、ないのか、難しいにゃあ」
「なんだよそれ。馬酔木は価値がないかもしれないものをわざわざ破壊しに来たってことか?」
「うぐ、そこまで言われると……。価値はないかもしれない」
「そのデータの存在を知っている人間は?」
栴檀に大鳳が首を横に振った。
「いない。いないはずだったんだけど」
やられた、というわけだ。
「それで、代わりに置かれていたのがこのスティック。メモが残されていて、中身はパソコン上では破壊されたデータってわけ」
データを消滅させるだけではなく、わざわざコピーしたものを残していた。
「つまり、私が人質なんじゃなくて、『この子』が人質になっちゃっているってわけ」
手に持ったスティックを左右に振る。
『クラウドにバックアップは?』
「あるわけないじゃない。こんな大事なものをその辺のクラウドサービスに置いておけるわけないでしょ」
『そりゃそうだけどさ』
「もう一度、中に書いてあることを思い出しながら書けばいいじゃないですか。天才なのでしょう?」
零陵が刺々しく聞く。
「やだよ超めんどいんだよ、それで何百時間もまたかけたくないんだから。女子高生の時間は貴重なんだよ」
「……そうですか」
零陵は大鳳と真面目にやり合うのも面倒になってしまったようだ。
『それ、ちょっと貸してくれる?』
「ん、いいけど、手荒に扱わないでよね」
大鳳からメモリースティックを受け取った沈水が、自前のPCに差し込み、中のデータを開こうとする。
『やっぱり2048ビットかー』
「ね、無理でしょ」
「お前でも無理なのか? ていうか何が無理なんだ?」
『無理っていうか、今の技術ではほとんど無理ってところ。今のコンピューターなら、地球がなくなるくらいの年数を計算しないと確実には解けるっていえないなあ』
「どういう仕組みなんだ?」
計算という単語に反応し、栴檀が沈水の方に寄る。
『これはRSA暗号方式っていうやつ。すごく単純に言うと、答えはわかるんだけど、問題はわからない数学の問題を使うんだ。具体的には、素数の掛け算を使う。二つの素数の積を暗号化に使って、その二つの素数を暗号を解く鍵にする』
素数は1とその数でしか割り切れない自然数で、小さい数は2、3、5、7、11となり、理論上は無限に存在することがわかっている。
『簡単な例だと6で暗号化されたものは、2と3で鍵が開くって感じ』
「さっきの2048ビットというのは?」
『暗号の強さを表すもので、二進法のこと。今のところ、実用で使われている最強レベルってところかな。十進法に直すと617桁にもなっちゃう。普通の人間なら桁数を数えるだけ、いや、数字を順に読むだけでも相当な時間がかかるだろうね』
「なるほど、それはどういうときに使うんだ?」
蘇合が疑問を沈水にぶつける。
『そうだね。これは人から安全にデータを送ってもらうときに一番使うんだ。誰にも見られずデータを送ってほしいけど、ネットは誰が盗聴、傍受しているかわからない』
「ああ、お前みたいのがな」
『あ、うん』
蘇合の茶々に沈水は否定しない。
『それで、開け閉め共通のパスワードを送って暗号化してもらおうにも、パスワードを送るデータを盗み見られたら意味がない。だから、閉めるパスワードと、開けるパスワードを分けるってわけ。その分けるための対になるやり方が、この素数と素因数分解を利用した方法ってこと』
「南京錠だけ送りつけるわけだな」
「そーいう感じ、おじさん結構わかるんじゃん」
大鳳が蘇合の理解力を褒めたが、おじさんと言われた蘇合は無視をする。
開ける鍵は手元に残しておいて、データを封印した箱にかける南京錠を送っておく。
その南京錠は特殊な作りで、開ける鍵の予想パターンがありすぎて、どうにも開けるには時間がかかりすぎるから、どうしても盗聴者は諦めるしかない、という仕掛けだ。
『これはその中でも、今レベルの高いところで使われている2048ビットの暗号で、ものすごい時間をかければ解けるけど、いや、すごい時間っていうのは、最新のマシンで何百年とか何千年とかそういう話だよ?』
「なるほど、なんかよくわからねえが、掛け算なんだな?」
計算の困難さを沈水は強調するも、蘇合はふむふむと聞き流し、立っていた栴檀を見て言った。
「できると思うか?」
「試してみる価値はある」
ふむ、とうなずきながら栴檀が沈水に指示する。
「沈水、表示できるか?」
『うん、できるけど』
栴檀の求めに応じて、沈水が暗号のキーを表示する。
暗号は十六進法で表示され、0から9、AからFときて次の桁に上がるようになっている。
「違う、十進法の整数にしてくれ」
栴檀が沈水に頼む。
栴檀の頭脳であれば、この十六進法で表示されたキーを十進法に変換できなくもないが、その次の作業に集中するために、表記を変えてもらう。
『でもさ、617桁だよ? 人間にできるようなことじゃない』
栴檀が蘇合に言われ、何をしようとしているのか沈水が察する。
「まさか沈水、栴檀をその辺の人間と同じだと思っているのか? 違うだろ」
栴檀を馬鹿にしているのか、それとも褒めているのかわからないような言い方で、蘇合が揶揄した。
『そりゃそうだけどさ』
「まさかかどうかは、見て考える」
『……うん』
沈水が画面いっぱいに十進法に変換したものを表示させる。
じっと栴檀がそれを見つめた。
計算自体は難しいわけではない。
仕組みは単純だ。
要は掛け算だ。
しかもたった二つの掛け算で、数字が大きい、というだけの話だ。
とりあえず、頭の中で大量の素数を取り出し、無限とも思える組み合わせを試してみる。
回収室のどこかにある時計の針だけが耳に聞こえた。
いつもに比べれば長い、たっぷりと一分近くを計算に使い、頭を振る。
違う。
この方法では、所詮コンピューターの総当たりと同じでしかない。
それならば、答えがわかったとしても、時間がかかってしまう。
現に沈水は、最新のコンピューターを使っても数百年以上かかると言っていたではないか。
頭に溜まっていた数字をすべて破棄する。
そうではなく。
機械ではなく、自分にしかできない方法があるはずだ。
数字一つ一つに囚われず、すべてを一つのまとまりとして見る。
いつものように、全体を見る。
ただの数字の暗算ではなく。
もっと感覚的に、今までの経験を使えばいけるはずだ。
一歩下がって、視界にすべての桁が完全に収まるようにする。
数字一つ一つに意思があるように。
それを聞き取るように。
沈黙が部屋を満たしている。
蘇合は見守るように栴檀を見つめている。
零陵と鷺は表情を変えず、沈水はもしやと期待感を持った顔で、大鳳は何が起こるのかわからないといった顔をしている。
一分ほどが経ち、栴檀がふいに手を挙げた。
零陵が沈水のプリンターからA4のコピー用紙を抜き出し、栴檀に渡すと、そこにボールペンで数字を書き連ねる。
それは長い桁の二つの数字だった。
すべてを書き終えると、栴檀はその紙を沈水に渡す。
「コンピューターで検算してくれ」
『うん、本当にやると思わなかったけど』
数字の羅列が書かれた紙を受け取った沈水が、パソコンを使って計算をさせる。
「ビンゴだ……、ありえない」
値を確認して、沈水が声に出して驚嘆している。
紙幣の券番を一瞬で暗記するなど、以前から栴檀の能力を目の当たりにすることは幾度もあった。
しかし、自分の範疇で無理だと思うことを成し遂げるとは沈水も思っていなかったのだろう。
「最高……ほんと、最高かよ」
ぶつぶつと口に出して自分が声を漏らしているのも気が付いていないようだ。
『……暗号は解けたよ』
「ちょ、ちょっと待って、何今の!?」
成り行きを見ていた大鳳が叫んだ。
「素因数分解をした」
ただ単純に事実だけを栴檀が述べた。
他の回収室の面々はそれを黙って聞いている。
「それがお前の能力か」
鷺は栴檀の能力について、事前知識があるようで、そのいつもの沈んだ表情が変わることはなかった。
「こいつはこういうことができるんだよ。数学というか、数字の天才だな」
「いやいや、数字の天才とか、そういう問題じゃないでしょ! 人間じゃないのこの人? どう考えたっておかしいでしょ! 異常よ異常!」
大鳳は右手を振って信じられないと否定する。
「いやはや、まったく素晴らしい能力ですね」
零陵が大鳳とは反対に感嘆している。
「人間だけど、ここのところは人間じゃないらしい。あんたらの話だと、コンピューター以上ってことだな」
なおも状況を理解しきれない大鳳に、蘇合が栴檀の頭を指して、栴檀の異常さを伝える。
「いやいやいやいや、みんなプロじゃないからかもしれないけど、これがどれくらいおかしなことかわからないの? ね、ね、あなたならわかってくれるでしょ?」
セキュリティの専門家である大鳳は振り返って沈水に同意を求める。
『まあ、信じられるかわかるか関係なく、現実を見ちゃうとね。現実の認識を変えるほかないよね』
沈水にも現実を見ろと言われ、大鳳はぐしゃぐしゃと頭を掻きまわす。
「ああ、もう、まったく。こんな人間が世界にいる可能性を踏まえてセキュリティを考え直さなくちゃいけないなんて、なんてこと」
『ん?』
ディスプレイを見て暗号を解いたファイルの中身を確認していた沈水が小さな疑問の声を上げた。
「通信してる!」
暗号が解けたと同時にメモリースティックのデータがどこかと通信を始めたようだ。
意味を察した大鳳も困惑の表情を浮かべる。
「え、そんな設定してないよ!」
「チィ!」
沈水がしゃがみ、パソコンからLANケーブルを引っこ抜く。
しかし、時既に遅しであった。
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