第五話 注記表および附属明細書⑨
最上階。
栴檀は零陵をその場に置き、最上階まで階段で上った。
馬酔木の居室があった場所だ。
零陵と別れてからは、誰にも会わなかった。
慎重にドアノブに手をかけようとしたところで、こんなことは意味がないと思いながらも、袖ごしにドアノブを掴む。
もし、電気が通っていても衝撃を多少なりとも防げるかもしれない。
それは杞憂に終わり、カギもかかっていないドアを捻る。
――いる。
直感的にそう思った。
頭の中で、部屋の構造を思い浮かべる。
隠れる場所はたくさんあるだろう。
馬酔木の仲間が何人いるかもわからない。
しかし、隠れてなどいない。
隠れるような性格をしていないのだ。
馬酔木は自分一人が今ここに来ることを期待していて、そうなるように仕組んでいるはずだ。
そう思うだけの確信があった。
扉が完全に開き、彼が姿を現す。
「ようこそいらっしゃいました」
彼は部屋の中央に置いてある一人がけのソファに座っていた。
回収室元室長にして、今回の事件の全体図を描いた人間。
髪は普段回収室にいたときと同じ白髪に戻っていたが、杖はついていなかった。
「馬酔木……」
「おや、懐かしい響きですね」
軽やかに馬酔木が返した。
「じゃあ、今は何なんだ」
「何なのでしょう。国家転覆を企む悪の組織の長でしょうか?」
冗談めかして馬酔木が言った。
「もちろん、名前を一つ呼ぶのなら、まだ『馬酔木』が良いでしょうか。死んだ人間の名前を名乗るのも悪くないでしょう。『彼ら』は『リーダー』などと呼んでいますが、それは個人名ではないですからね。名前を考えるのはどうも苦手でしてね。あなたたちにもずいぶんとわかりにくい名前をつけてしまいました」
「十種香か」
以前、蘇合に言われて、栴檀も検索で調べていた。
栴檀
沈水
蘇合
薫陸
鬱金
青木
白膠
零陵
甘松
鶏舌
香り当てをする十種類の香、もしくは、特に素晴らしいとされる十種類の香のことだ。
「そうです、本当はあと五人ほど集めて野球ができるくらいにしようかと思っていたのですが、思いの外計画がはやく進みまして」
「沈水はどこにいる?」
ふざけた言い回しを無視して、栴檀は問いただす。
沈水は栴檀と引き替えという取引だった。
で、あれば、沈水の命は保証されているはずだ。
「ああ、彼なら地下の車の中で少し眠ってもらっています。彼が仲間に入ってくれれば心強かったのですが、どうやら意志は堅いようで、入りたくはないと断られたのです。もっとも、今は大鳳さんがいますから、大部分は何とかなるでしょう」
「そうか」
何を言われたか知らないが、沈水は馬酔木の申し出を断ったようだ。
「蘇合は?」
「はて、どこでしょう? この部屋には来ていないようですが」
ソファに座ったまま、馬酔木は首を右に傾けた。
零陵の言うとおり、蘇合はまだ下の階にいるのだろう。
だが、念を入れて問いただす。
「本当か?」
「誓って。おそらく、私の部下と衝突をしているのではないでしょうか。それに関しては報告が上がっていませんので、今の私にはどうすることもできません。心配性の部下が多いものでね」
「お前は、何をする気なんだ」
「何をする気だと思います?」
「金を集め、アメリカに金が存在しないことを公表し、通貨制度が揺らいだところで、ユーコインを金本位制にすると発表する。そして、世界中の経済を牛耳る」
回収室で言ったことを、端的にまとめて言う。
それを黙って聞いていた馬酔木は納得したのか、あるいはまったく違うのか、眉を少し寄せて複雑な表情をした。
理解力の足りない生徒に、どう説明すればわかってもらえるのか、と困っている教師のようだった。
やや間があって、馬酔木が言葉を切り出す。
「ええ、まあ、短期的にはそういうことでしょうかね」
「短期的には、だと?」
全否定をしたわけではない。
かといって、肯定したわけでもない。
「ふうむ、確かに、短期的にはそのような経過を辿ると推測できますね」
栴檀が思いついた馬酔木の計画は、まだ途上だというのだろうか。
「それが目的じゃないのか?」
「ああ、いえ、そういうわけではありません。短期的には現代の貨幣制度が崩壊する状況が生まれると思いますが、あくまでそれは瞬間的にしかなり得ません。崩壊しかけたとき、ちょっと困ったことが起こるのです」
その困ったことがまるでほんの些細なことであるかのように言う。
「もしそうなったとき、我々に足りないものはなんだと思いますか?」
まるで貨幣制度が崩壊するところまでは確定事項であるかのように、馬酔木が問いかける。
どの国にも依存せず、世界を操作するほどの圧倒的な経済力を持った存在がいたとしても、少数だからこそ、多勢に無勢となりうる。
零陵と蘇合が話していたことだ。
アメリカがその気になれば何をするか。
アメリカにできて、今の馬酔木にできないこと。
「……軍事力だ」
「その通りです」
物理的な攻撃の点では、馬酔木側は寄る辺なき存在だ。
正体が発覚してさえしまえば、大義名分を用意して、多くの国が潰しにかかるだろう。
そうなると、いくら馬酔木でもひとたまりもない。
「どこかの国の庇護を得るのか?」
馬酔木の計画通りにことが進み、ユーコインが世界中で使われるほど存在感を持ったとき、その『力』を自らに利するように引き込みたい国は大国から小国までいくらでも出てくるはずだ。
「いいえ、しかし惜しい」
「惜しい、だと」
間違っているわけではなく、惜しいと言った。
既存の国の庇護を得るわけではなく、各国からその身を守る。
栴檀の頭に、今まで以上に馬鹿げている考えが浮かんだ。
しかし、馬酔木ならやりかねない。
「まさか、お前は国を作るつもりか?」
にこり、と馬酔木が笑った。
「私が作るのは、電子上のネットの国です。ネット以外から攻撃ができず、我々はネットから攻撃をする。これなら少数でも戦えます。サーバーを攻撃されても、そのための準備は整えています。もう、数千万を超えるデバイスがその役目を果たすことができるようにセッティングされています」
「数千万……」
途方もない数だ。
小さな国の人口なら超えてしまっているだろう。
「ユーコインのソフトウェアか」
ユーコインを利用するためにはソフトウェアが必要になる。
その中に、あるいはユーコインというシステムそのものに、馬酔木の意図するように行動するプログラムが組み込まれているのだ。
「しかし、数が」
ユーコインは仮想通貨の中でもマイナーな部類だ。
数千万とは勘定が合わない。
「もちろんそれだけではありません。もっと多くのソフトウェアがあり、それらにも同様に組み込んであります。それに、つい最近手にした20億もありますし、上々でしょう」
「20億……そうか、南アフリカの事件もお前の仕業だったのか」
「ええ、そうやって統一貨幣のもとに、世界が一つになるんですよ。国境も政府も銀行も意味をなさない、自由経済の世界です。まるでバベルのようではありませんか」
あまりにも壮大すぎる馬酔木の目的に栴檀もたじろぐ。
「バベルは結局崩壊した。お前の計画もそうなる」
「そういえばそうでしたね、このたとえは訂正いたしましょう」
「……そんなことができると本当に思っているのか?」
「こんなこともできないと本当に思っているのですか?」
問いかけは、馬酔木の方が一枚上手だ。
「すべて、誰からも依頼されていない、お前が考えた計画なのか?」
「人が誰に影響されたのか、何が『自分自身』なのか、それを判別することは大変難しい問題です。私だと言えるし、これまでの経験の源泉は私ではないとも言えます」
それは牛囃の演説にも似ている。
いや、牛囃が馬酔木に感化されていたのだろう。
「ああ、そうだ」
馬酔木は背後から一枚の紙を取り出す。
「それは」
見覚えのある紙は、鷺に見せられた米国債と同じだ。
「やはりお前が持っていたのか」
「ええ、そうです。ですがもう用なしですね」
「どういうことだ?」
馬酔木と対峙すると、栴檀はどうしても質問攻めをする羽目になってしまう。
栴檀は何も知らなくて、代わりに馬酔木はすべてを知っている、という構図が出来上がってしまっている。
「いえ、この一枚は単にあなたを誘い出すために残しておいたものです。本当は二枚用意してあったのですが」
「……宇佐か」
「ああ、彼ですが。単に周りをうろうろしていた、それだけですよ。まさかUSPに保管していた一枚を持ち出すとは思いませんでしたが、なかなかセキュリティは厳しかったはずなのですが」
こともなげに馬酔木は言った。
「お前を裏切ったんじゃないのか」
行方不明になった宇佐を、栴檀は馬酔木とともに行動するためにいなくなったと思っていた。
「最初から信頼関係があったわけではありませんよ。短時間で2億円を集めた手腕が何か役に立つと思って声をかけただけです。向こうも大して信じていたわけではないでしょう」
宇佐は以前の事件のとき、第三者という立場ながら、レアリティのない旧一万円札を二万枚、合計2億円を詐欺師のために用意した古物商だ。
単なる古物商に留まらない、グレーの領域の伝手もあったことだろう。
それを馬酔木は利用しようとしていたのだ。
宇佐が何を考えていたのかはもうわからない。
逆に馬酔木を利用して大金を得ようとしたのか、馬酔木側につき続けて世界を変えようと思ったのか。
馬酔木は左手に持った米国債の端に、いつの間にか右手に持っていた銀色のライターで火をつけた。
みるみるうちに紙は燃え広がり、馬酔木の手に近づいたところで、ぱっと指を離して床に落とした。
端は焼け残ったが、これが失われた米国債券であることを証明することはもはや不可能だろう。
「ああ、そうだ。一応聞いておきますが、『我々』の仲間になりませんか?」
「なる、と答えると思っていたのか?」
馬酔木は沈水と交換だったはずの交渉を、『一応』という括りで済ませてしまっている。
「そうですね、一割ほどは期待していました」
「本当か?」
「いいえ、冗談です。もちろん、あなたの能力は大変素晴らしいものですし、命を担保として従わせる、という考えもあるのですが、あなたはそれも嫌なのでしょう? 嫌だと言っている相手に無理強いをするのは、どうも主義に反しましてね」
一体何のためにここまで来たのか、栴檀にもわからなくなっていた。
馬酔木には目的があるのか、ないのか、それもよくわからない。
「ただ」
と馬酔木が続ける。
「この話を聞けば、確率は二割になるのではないかと思いまして」
一層馬酔木の顔が綻ぶ。
「あなたは私だったかもしれないのです」
「なんだと?」
「『次世代の子供』プロジェクトの話を聞きましたね」
「ああ」
鷺に馬酔木のことは聞いている。
政府が秘密裏に創り出した、政府のために働く裏の人間。
それが馬酔木だ。
「すでにご存知の通り、私は政府のために作られた存在、架空の存在です」
馬酔木もそれを自覚していた。
「私は第一世代で、初めての完成形だと言われています。ということは、もちろん、完成に至らなかった存在もいたはずです」
彼の言葉は、氷のように栴檀の首筋を通り、背中を流れる。
極寒の大地に来たかのような緊張感が走った。
馬酔木は、何を言おうとしている。
「単純な推測です。最初から上手くいったはずがない。それこそ『廃棄』された人間もいたはずです。もしかしたら、その中に生き残っている人間がいたかもしれませんね」
「何が言いたい!」
思わず、栴檀は声を荒らげる。
「それが、あなたです」
歌でも歌うように軽やかに馬酔木は言った。
「あなたは私の失敗作です」
「そんな、はずはない!」
「本当ですか? あなたに両親はいましたか? 顔を思い出すことはできますか?」
両親はいたはずだ。
小さい頃に死んでしまった。
なんで死んでしまったのか。
本当に事故だったろうか。
どうして親戚が誰もいなかったのか。
施設に預けられたのはいつだったのか。
施設の名前は思い出せるか。
小学校は、中学校は。
いや、どこかに書類があるはずだ。
履歴書もあったはずだ。
馬酔木に栴檀と名付けられる前の自分が。
どこかにあったはずだ。
自分を証明するものが。
以前の自分は死亡届が出てしまっているが、両親の名前と、出生地が書かれた戸籍があるはずだ。
自分はそんなものではない、という想いがあった。
揺れる栴檀の思考に、馬酔木が畳みかけるように淀みなく言う。
「いつからの記憶がありますか? それを証明してくれる何かがありますか? 戸籍から何から書き換えられるこの社会で、その記憶と紙切れは絶対的なものですか?」
馬酔木自身、何度も名前を変え、戸籍を創り、有から無へ、無から有へと渡り歩いてきたのだ。
そこには、彼ならではの実感がこもっているかのようだった。
「あなたのもっとも古い記憶、数字の記憶はなんですか?」
馬酔木が言った言葉は、いつか夢で聞かれた言葉だ。
「……42」
確かに、それが栴檀の記憶の奥底にあった数字だった。
「ええ、そうでしょうね、それがあなたにつけられた番号、計画被験者としての通し番号ですよ」
「そんな……」
「では、何の数字ですか? まさか、あなたの一番古い記憶が『生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え』というわけではないでしょう?」
問いただされたが、その数字の記憶があるというだけで、栴檀の中にはその数字と結びついている特徴的な意味はなく、口を噤み、押し黙るしかなかった。
「ちなみに私の番号は63です。私のもなかなか良い番号ですね、六十四卦でいえば……」
「水火既済」
「さすが、数字関連ならあらゆることが記憶できる能力です。水火既済、現状維持をせよ、ということですね。まさに経済のバランサーになるために作られた私のためにある番号のようです」
「どうして、お前が知っている」
「あなたの番号を、ですか? それはもちろん、あなたよりはあちらにいた期間が長いですからね。あなたを見かけたことだってありますよ」
どこまでが本当で、どこからが嘘なのか、栴檀にはわかりようもない。
すべてが嘘であれば、という気持ちだけがあった。
「どうです? 面白くなってきたと思いませんか? 少しは傾いてきてませんか? あやふやで、くだらなくて、人の存在なんてどうとも思っていないこの社会を捨てて、もう少し自己を確立してみたいと思いませんか? 社会への復讐など些細なことです」
「それが、お前の望みか」
「管理です。誰かに指示されるのではなく、誰にも咎められない場所から、我々が世界を管理するのです」
「神にでもなるつもりか」
「定義次第では、そうかもしれませんね」
嘲るつもりで言った言葉を、馬酔木は真剣に受け止めた。
「ええ、きっと、それは美しくて、楽しいものでしょう」
馬酔木が座ったまま、右手を差し出す。
「それは、永遠の命に等しい。永遠に私たちによって、世界は管理されるのです。魅力的でしょう?」
栴檀と馬酔木の距離は遠い。
あと三歩はある。
申し出を受けるなら、手を取れということだ。
たっぷり時間を置いて、栴檀が口を開く。
「断る」
そんな栴檀の言葉を、答えがもうずっと前からわかっていたような顔で聞き、馬酔木が聞き返す。
「どうしてですか?」
「そんな話は信じられない」
それが自分の思考回路を調整、整理した栴檀の結論だった。
「そうですね、私の妄想かもしれません。『彼ら』にとってみれば、私はとうに壊れてしまっているらしいのですから」
自嘲気味に馬酔木が言った。
二人の間に僅かばかりの回顧の時間が訪れる。
馬酔木から落ち着いた吐息が聞こえる。
自分の言葉を待っているのを感じる。
敵前でありながら、栴檀はゆっくりと、
「俺は、これからも、栴檀として生きていく」
栴檀は、久しぶりに自分を指す一人称を使った気がしていた。
もう何年も何十年も記憶にない。
数字ばかりが詰まった頭の中に、自分がいなかったのだ。
「皮肉なものですね、あなたは私が名前を与えることで、あなたという自己を確固たる物にしてしまった」
わざとらしく、馬酔木は溜息をついた。
「そろそろ戯れ言も終わりにしましょうか」
右手で、膝の皺を伸ばす。
「さて、どうしますか?」
馬酔木が余裕たっぷりに言った。
「どうとは?」
栴檀が聞き返す。
「いえ、一応双方リーダーが向かい合ったわけですから、物語に決着をつけるというのもいいでしょう。格闘は得意ではありませんが、訓練の面では場数も踏んでいますから、よもやあなたに負けるということもないでしょう」
立ち上がろうとした馬酔木に、栴檀は拳銃を向けた。
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