第五話 注記表および附属明細書⑥


「ん、ん……」


 栴檀が目を覚ます。


「痛みはないか?」


 ソファから身体を起こした栴檀を向かいのソファから眺めていたのは鷺だった。

 死体を前にして絶望しているようないつもの表情で、栴檀を見下ろしていた。


「ちくしょう」

「まあ、そう言うな。お前を思ってのことだろう」

「そうも言っていられない。何時間経った? うっ」


 みぞおちがギリリと痛んだ。


「案外容赦なく殴ったみたいだな」


 栴檀が立ち上がり、身体を左右にねじる。

 みぞおち以外のダメージはないようだった。

 動いても問題ないだろう。


「二人は?」


 回収室には、蘇合と零陵の姿は見えなかった。


「蘇合から連絡をもらって、俺がここに来たのは三十分ほど前だ。すぐに連絡をしたのなら、一時間というところになるな」

「そんなに眠っていたのか」

「ああ」


 鷺が首肯する。


「馬酔木側じゃなかったんだな」


 蘇合からの連絡で様子を見に来てくれたのだから、馬酔木に与するものではないのだろう。


「疑っていたのか?」


 いたって真面目な顔で鷺が聞いた。


「可能性の話だ」


 嘘の情報を流し、回収室を混乱させながら、馬酔木の思い通りに事を進めるためのコマとして送り込まれていた可能性もゼロではないと、密かに疑っていた。

 実際は別の人物が回収室をかき乱していたわけだが。


「あんた、大鳳が馬酔木側だってことを知っていたのか?」


 セキュリティ界では有名人だとしても、鷺が大鳳を知っているというのは少し妙な気がしたし、玄関にいたにもかかわらず、回収室の面々に大鳳のことを伝えなかったのにも違和感があった。


「可能な限り、対象者とは接触をしない。それが内調の基本的なポリシーだ」


 鷺が曖昧に肯定する。


「言ってくれればもっと助かったんだが」

「馬酔木側だと思っていたわけではない。不穏な動きがあるとして、監視対象者のリストに入っていただけだ。相手はプロといえども未成年だ、大したことはないと調査を怠っていたのも事実だ」

「そうか。USPとユーコインのことを聞かせたのも調査のためか?」

「そういうことになる。反応を窺っていたが、天真爛漫すぎて参考にならなかった」


 確かに大鳳は話の最中も動揺することなく、仮想通貨についての情報提供もしてくれた。あれが演技だとしたら、相当な役者だ。


「行く気か?」


 再び身体中を見回して、異変がないことを確認している栴檀に鷺が言う。


「止めないでくれ」


 骨も折れていない。よほどきれいに殴られたのだろう。


「止めないよ、面倒を見てくれと言われただけだからな」


 自分が出ていかないように内側から鍵でも掛けているのかと栴檀は思ったが、対する鷺はあっさりと出て行くことを認めた。


「じゃあ、車を出してくれるか」

「問題ない。外で待機しているメンバーに連絡する」

「助かる」

「今は栴檀、とか言ったな」


 出て行こうとする栴檀を鷺が引き留める。


「ああ」

「回収室の面々は、馬酔木の元で新しい名前と戸籍を与えられたと聞く」

「そうだ」


 犯罪容疑者としての自分を消し、新しい存在になった。

 現実には、『死んだ』ことになっているのは栴檀と蘇合だけで、沈水は逮捕歴がないのでこれまでと合わせて二重の戸籍を持ち、日系アメリカ人である零陵は本名でアメリカ国籍を残している。


「お前が、栴檀でなかった頃の記憶はあるか?」

「あ、ああ、それはあるが」


 出し抜けに何を言っているのかと思うも、鷺がふざけているようには見えなかった。

 もう誰も呼ぶことがない名前ではあるが、栴檀として生まれ変わる前の、会計士だった頃のことを忘れてはいない。


「事実をどこまで知っている?」

「どういう意味だ?」

「……いいや、知らなければいいんだ。知っていても何も変わらないしな」


 自問自答のような会話を打ち切る。


「できれば死ぬなよ、そしてできれば殺すな。両方ともまだそのときではない」

「……ああ、できれば」


 歴戦の戦友であったかのように、ついこの間知り合った鷺が見送った。

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