未来への展望と渇望 その2
切羽詰まった声に、逃げかけた動きが止まる。
ゆっくり身体を戻してみると、そこには切実に訴えかける嘆願の眼差しがあった。
揺らめく様に波打つ紫髪は、紛れもなく原作で描かれていたエレオノーラそのものだ。
しかし、弱々しい物腰や儚げな雰囲気は、まったく悪役令嬢を想起させない。
別人を疑ってしまう程だが、そもそも彼女が苛烈な性格になるのはもっと後になってからだ。
母の死、兄との確執、公爵家への恨み――。
それらが彼女を変えてしまう。
それを思えば、閉じ込められた籠の鳥に過ぎない現在のエレオノーラが、この時点で弱々しく見えるのも当然かもしれなかった。
その彼女が助けて、と願っている。
その様子から見て、母親の容態は相当悪いのだろう。
原作では、いつクリスティーナが死んだのか明確にされていない。
ただ、グスティンが助け出そうとした時には、既に他界していたと知されるのみだ。
原作開始が二年後に迫った今、そのクリスティーナが深刻な病に侵されているとしても、まったく不思議ではなかった。
――逃げた方が良い。
聞こえなかったフリをすればいい。
極悪非道な我が家のメイドみたいに、姿を眩ませるのが最善だ。
そう、分かっているのに――。
身体は逃げ出してくれなかった。
いつか思った、悲劇を回避したいという思いが、心の何処かにあったからだ。
それに、妖精ではない、たまたま迷い込んだ不審者だ、という言い訳も通用しなかった。
いつもの葉包を置いた所を、すっかり目撃されてしまっている。
仕方ない、と腹を括って佇まいを直した。
「……詳しく話を聞かせて頂戴。何が、どうしたの?」
「お、お母様のお加減が……っ。全然、良くならなくて……! それで……!」
「えぇ、それは手紙に書いてくれていたものね。分かってるわ。ひどくなってるの?」
「そう、そうなんです……っ。全然良くならなくて、もう、どうしたらいいか……っ! お母様が……もし、お母様が……っ!」
それ以上は声にならず、嗚咽が交じった。
母と二人、支え合って生きて来たのだろうから、不安がるのも当然だ。
しかし、風邪に似た症状と言っても様々で、そして村医者以下の知識しかない私では、大した役にも立てないだろう。
「使用人は? 居る筈でしょう? 薬草に少しでも効いた様子はあった?」
「マーサたちは……助けてくれません。助けちゃいけない決まりだって……! 貰った薬草も、食べて貰ったけど……。でも、それもこの前見つかっちゃって、取り上げられて……!」
「食べさせるより煎じた方が……。いや、いいわ。でも、取り上げられる? ……あぁ、そうか。仮にも公爵夫人……、良く分からないものは口にさせられないわよね」
薬草やその根をポンと渡されても、適した使い方が分からないのは当然だ。
そして、自分に分からないなら、分かりそうな人を頼るのも当然だった。
マーサという使用人に頼むまでは良いとして、どこから拾ったか分からない草を、薬草と言われても困るだろう。
「いえ、違うのです。母には……、薬を渡せない、飲ませられな決まりがあると、言われて……ッ! それで、捨てられてしまって……!」
「なにそれ、嫌がらせ――いえ、待って……」
仮にも公爵夫人を、こんな邸宅に押し込み続けているくらいだ。
単に使用人が独断で……というより、そうした指示を受けていると考えなければおかしい。
積極的に危害を加えたり、殺すつもりはなくとも、病死などであれば喜んで歓迎する――そうした悪意があるに違いない。
先程、エレオノーラから
過度な手助けや接触は、雇用時に固く禁じられていたのかもしれない。
一応は、一つ屋根の下で暮らす者同士だ。
病気の時くらい、憐れに思って手助けぐらいするものだろう。
それすらが、ここでは禁止されている事なのだ。
「とにかく、分かったわ。案内して貰える? どれだけ出来るか分からないけど、診るだけ診てみるから」
「あ、ありがとう、妖精さん……っ!」
その呼び方は、今となっては勘弁して欲しい。
もはや気まずい所ではないのだが、今はそれを訂正するより部屋へ向かう方が先決だった。
曖昧に頷いて、走り出すエレオノーラの後を追う。
外から見ても二人が住むには大きい造りと思っていたとおり、中を歩いてみると想像通りの広さだった。
家財や調度品も、その造りに相応しいものが揃えられ、我が家よりも余程豪華に見える。
要らない人間を押し込める家とはいえ、公爵家なりの品格というものは維持されているようだ。
掃除も行き届いているところをみると、使用人は与えられた仕事をしっかりとこなしているらしい。
生かしておきたくない人間を置く為だというのに、そういう所に手を抜かないのも、もしかしたら公爵家なりの矜持というものなのかもしれなかった。
エレオノーラに先導されるまま、階段を登って二階へ行く。
彼女にとっては誰憚るものでないから気にしないだろうが、こちらは使用人の誰かと鉢合わせないかと冷や冷やする。
一応、なるべく音を立てない様に階段を登り、そうしながらも周囲へ気配を探るのも止めない。
階段の上では隠れる所もないので、注意したところで意味もないのだが、そうせずにはいられないのだ。
警備兵などが居ないのは確認済みなので、見つかった所で、すぐにどうこうという話にならない。
とはいえ、そこから問題が雪だるま式に増える事を思えば、最後まで発見されないのが最良だ。
――どうか、鉢合わせしませんように。
それだけ願って、エレオノーラの背中を追う。
そうして階段も登り切ると、鉤形になった廊下の先、奥まった扉の前で足を止めた。
扉の大きさや飾り紋が刻まれている所を見ても、ここが他より位高い人の部屋だと分かる。
エレオノーラが軽くノックして三秒待ち、返事がなくとも気にせず扉を開いた。
中は質素ながらよく整えられた部屋で、過度な装飾など無くても、その貴位の高さを示せる部屋だった。
文机や書棚など、淑女の部屋に相応しい物は一通り揃っていて、窓辺の隅には天蓋付きのベッドがある。
脇には椅子と小テーブルがあり、水差しと洗面用の木桶が置いてある。
桶の縁には布巾が掛かっていて、これまで看病していた跡が見えた。
エレオノーラは木桶の水に布巾を浸して固く絞り、それを天蓋の奥に隠れた人影へとそっと差し出す。
ここからでは姿が見えないが、その汗を拭ったりと献身的な介護をしているようだ。
手元は危うく、額の汗を拭うだけでは大した意味もない。
それでも、自分がされて嬉しかった事などを、自分なりに考えてやっている。
人影からは小さなうめき声と、荒い吐息しか聞こえず、今も昏睡状態のようだ。
エレオノーラの焦り方を考えると、もしかすると長く意識が途絶えているのかもしれない。
思考を整理しながら、ベッドにそっと近寄りながら枕元に立つ。
露わになった顔は赤く、眉間にシワを寄せ苦悶し、時折激しい咳もした。
エレオノーラの美貌は母譲りと原作にもあったが、確かに良く似ている。
苦しみ喘いでいる姿さえ、どこか絵になる魅力を秘めていた。
布団の中から腕を取り、脈と温度を計りながら尋ねる。
「……意識は? 今日、起きてるところ見た?」
「い、いえ……、まだ見てないです……」
「昨日は?」
「水が欲しいと起きる事があって、何度か……」
「咳が激しいけど、痰は出した?」
「えぇ、はい……」
「色は見てる? 痰壺とか、あるなら見せて」
「い、いえ、ないです……。もう、捨ててしまって……っ。あぁ、色は……どうだったろう……!?」
自分がとんでもない失敗をしたと思って、軽いパニックなっている。
安心させるよう、その腕を何度か擦ってから、質問の続きをした。
「大丈夫、分からないならそれでいいわ。食事の方はどう?」
「いえ、食べたくないからって……。それに、固いパンをふやかしたものしかなくって……。一度無理して食べたんですけど、吐いてしまって……っ」
問診している間にも、エレオノーラの瞳は涙が溜まっていく。
嗚咽は押し殺そうとしているが、今にも爆発しそうでもあった。
だがとりあえず、症状の見当は付けられた。
――これは肺炎だ。
風邪によく似た諸症状、三十八度を超えていると思しき体温、激しく咳き込むところをみるに、まず間違いない。
去年の秋頃は村でも流行してしまい、あわやという所だったのだ。
嫌というほど見せられた症状なので、この診断にはまず自信がある。
風邪によく似ているから軽く見られがちで、寝ていれば治ると思われる場合も多い。
薬を買えない農村では、特にその傾向が強く、熱を出した程度なら病気の中でもまだ幸運、と思う程だった。
だが、これは放置すれば死にかねない病だ。
もしかするとクリスティーナも、この病が原因で命を落としたのかもしれない。
心配そうに見つめてくるエレオノーラに、大丈夫だと微笑みながら頷いた。
去年はそれこそ大変な目に遭ったが、今日間違いのない診断を下せる為と思えば、そう悪い事でもなかった。
「大丈夫、これは治る病よ。本来、原因が複数あって特定も難しいんだけど、去年の流行り病が今頃こっちに流れて来たと思えば、まぁ……。治し方も薬も判明してるから、よほど体力が落ちてないなら大丈夫よ」
「よ、良かった……!」
緊張が途切れたのか、エレオノーラの瞳から涙が零れ落ちていく。
脱力して身体を震わせ、嗚咽を鳴らしながら涙を拭った。
その頭を抱いてやり、背中に手を回して優しく叩く。
「大丈夫、お母様は治るわ。治し方を知ってる。だから、安心して。一人で心配だったでしょうに、良く頑張ったわね」
「わ、わたし……もう駄目かもって! 誰に助けて貰えばいいんだろうって……! 家の人は誰も助けてくれなくて、わたし……わたし……っ!」
「えぇ、それじゃあ藁にも縋りたくなるでしょう。もう、大丈夫。任せて。何にも心配いらないわ」
「あり……、ありが……うわぁぁぁん!」
遂には感情が決壊し、大声を上げて泣き始めた。
腰に手を回され抱き締められ、熱いものが服越しに伝わって来る。
その背を優しく撫でながら、扉を気にしながら、どうしたものかと眉根を潜めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます