守るべきもの その3
エリクが来た道を戻れば、赤熊はすぐに見つけられた。
まだ実を付けていない葡萄の樹が踏み荒らされていたので、そこを辿れば発見は尚、容易かった。
赤熊の身体は痩せていて、厚い体毛を持っているだろうに、あばら骨がハッキリ見えている。
腹は凹み、眼はギラギラと輝いて、飢餓状態にあるとすぐに分かった。
カーリアが慎重に道を選んでくれたお陰で、あばら骨が見えるほど近付いても、未だ赤熊には勘付かれていない。
恐らくは、風下にいる事も理由の一つだろう。
赤熊は鼻を鳴らしながら、忙しなく顔を動かし、食料を探して村の中を練り歩いている様だ。
そして、向かう先には納屋らしき建物が見え、そこから目と鼻の先に民家があった。
既に退避してくれていれば良いが、まだ連絡が行き渡っていない可能性の方が高いだろう。
被害が出る前に、赤熊の対処を急がねばならない。
すぐ眼の前で腰を低くしながら先導するカーリアへ、口に手を当てながら小声で訊いてみた。
「……ねぇ、被害が出る前に、足止めだけでもしておけない?」
「そうですね……。既にあの家の人達は避難しているから、当面の危険はないと思います。でも、戦う場所を考えると、今の内から足止めは良い考えかもしれません」
「は……? あの家に人がいないかどうか、どうしてあんたに分かるのよ」
「気配がしませんから」
事も無げに言われ、思わず胡乱な目を向ける。
ここから家まで、少なく見積もっても五十メルケは離れている。一メルケは現世の一メートルとほぼ等しいから、やはり相当な距離だ。
それだけの距離が離れていて、民家の気配を正確に察知できるものだろうか。
この状況でカーリアが嘘をついていると思いたくないが、その自信がどこから来るのかは疑問が残る。
「……ねぇ、前から思ってたけど、あんたって何者なの? よくよく考えると、ちょっとおかしくない?」
「然様でしょうか? メイドであれば、このぐらい普通ですよ」
「どこの世界のメイドよ。ウチで雇ってるメイド全てが、あんた基準って考えると凄く怖いんだけど……」
音もなく、気配を察知させず背後で佇んでいたり、片手で子供の頭を鷲掴んで持ち上げたり……。
それらは気配りが出来るとか、お茶を上手に淹れられるとか、そうした技能とは全く別だろう。
むしろ、メイドの皮を被った別の何か、と考える方がしっくり来る。
戦闘の心得がある様に見えるところも、それに拍車を掛けていた。
「まぁ、そうですね……。幾らか認めた相手として、少しは教えておかないといけませんか。……単に暴力を生業とする場所で、生まれ育っただけですよ」
「それを
「まぁ、半分くらいは。なのでこれからは、お嬢様第一で動きますよ。ご当主には良い顔だけして、それとなく躱しておきます」
「それはまぁ……、今更感あると思うけど……。今までは第一じゃなかったの?」
「そうですね、オルガスさんの命令優先です。お嬢様の身辺警護も、その一つでした」
何とも複雑な気持ちにさせられる発言だった。
これまでも、一応は命令に従順な姿勢は見せていた。
危険な事をしようとすると口を挟んたり、見知らぬ人への警戒は欠かさなかったり、畑や実験の手伝いもやってくれていた。
しかし、それら全ては、オルガスの命令があったからなのか。
元より給金を出しているのは父であり、雇い主も父だと告げられてはいた。
尽くしているのは、あくまで仕事だからだと。
しかし、長く付き合う内に、そうした関係に変化が生まれたと思っていたのは、こちらの勝手な勘違いだったようだ。
「でも、これからは違います。お嬢様はそれだけの気概を示されました。この身を半分は預けても良いと」
「半分だけなのね。じゃあ、もう半分は……?」
「それは勿論、私の人事権を持つ人です。雇われの身であるのは変わりありませんから」
結局のところ、人事を握る相手には逆らえない、という事らしい。
実際にカーリアを雇い、自分で給金を出せるようでなければ、真の忠誠は得られない、という事だろうか。
そういうところは妙に傭兵っぽい。
暴力を生業にしていた、と言っていた事からも符号する部分がある。
「認めるとか仕えるとか言いつつ、お金はしっかりと頂戴するのね」
「忠誠っていうのは、お金という下地がなければ成り立たないんですよ。特に傭兵の忠誠は、得るものじゃありません。買うものです」
「それを忠誠と呼ぶのは抵抗があるんだけど……」
「では、お嬢様自身が心服させるしかないですね。利害が超越した関係を築きたいなら、単なる気概だけでは足りません」
関係が一歩進んだのは確かみたいだが、どうやらまだまだ足りないらしい。
カーリアの人生哲学なのか、それともこの世界における常識なのかまでは分からない。
だが、最初はマイナスの関係から始まっていた事を考えると、これは大きな前進と見て良い筈だった。
それに実際、未だ何かを成し得た訳でもない。
忠誠は心服させるだけの何かと共にある、と言われたら、確かに今の自分は何もかも足りてないと自覚できる。
それでも、積極的に味方してくれる存在が傍にいると思えば、心強いのは変わりなかった。
「さぁ、ここであまりお喋りしていられないでしょう。ヨーンさんが男衆を集めてくれたみたいですよ。足止めと言わず、ここで決着を付けましょう」
背後を振り返って見れば、確かにそれぞれ農具を手に抱えた男衆が近付いている。
ただし、それはまだ随分遠くにいて、小麦の粒程の大きさでしかない。
カーリアはそれを、後ろも見ずに言い当てた。
そんな芸当が出来るなら、確かにあの家の中には、誰も居ないと考えて良いだろう。
「それで……、どうやって相手すればいいの? 魔獣って、魔核を破壊しないと死なないんでしょ? 本にはある程度、規則性があるって書いてあったけど……」
「赤熊の場合、その多くは肝にあります。魔力を多く蓄える核を持つからこそ、その肝は薬としても重宝され、高額で売れます。とはいえ……」
「規則性があるだけで、絶対ではない。――よね?」
カーリアは満足気な雰囲気を発して頷いた。
講義している間も、ずっと赤熊を注視しているので顔は見えないが、その分だけ雰囲気が掴みやすい。
「そうでない場合、次の可能性として高いのは心臓です。このどちらにも魔核がない場合、破壊は諦めます」
「え……。いいの、それ……?」
「私達は別に、魔獣をこの場で、どうしても殺したい訳じゃありませんから。本格的な討伐は騎士団に任せましょう。森に追っ払うだけ……もっと言うなら、村に来ると怖い目に遭う、と思わせれば勝ちですよ」
赤熊は賢いと言われるぐらいだから、損得について考えられるだろう。
食料がなくて森から出て来たのは、あの見窄らしい姿を見れば一目瞭然だが、村に来ても危険だと分かれば近寄るまい。
土壁の向こうに食料があっても、強行突破しなかったのと同じ理屈だ。
危険だと判断すれば、赤熊はまず回避を選ぶ。
この村に来ても割に合わない、と思われせば、確かにそれで十分だった。
「そうね、分かったわ。どうせこっちには、ロクな武器だって無いんだから。じゃあ、最初から怯えさせる方向で行かない?」
「……お嬢様がそうしたい、と仰るなら」
不承不承の雰囲気はあるものの、僅かな間を置いて頷く。
「その場合は、もっと簡単です。適当に転がして、適当に拘束して、周囲で怒鳴り声を上げながら、武器を突き刺せば良いでしょう。恐怖心を植え付けるのです」
「全っ然、簡単そうに聞こえないんだけど……。あの巨体をどう転がして、どう拘束しろって言うのよ」
「お嬢様にはお手の物でしょう。いつも、子供達相手にやってるじゃないですか」
――あのジェットコースターもどきか……。
子供だけと言わず、大人も交えて数人同時に動かしても、問題なく運行できる程だから、大きいとはいえ熊一匹どうとでもなりそうだった。
確かにあれなら足止めも容易な上、上手くすれば拘束も可能かもしれない。
しかし、遊び心で転がすのは良いとして、拘束となるとやった事がないので自信は無かった。
どうすれば良いか考えても、土で固める方法以外思い付かない。
とはいえ、土を集めて凝固させる程度の強度など、たかが知れている。
「拘束については、あんまり自信ないんだけど……」
「長時間、拘束する必要はありません。土は流動性ですから、抜けられる直前に拘束し直せば良いのです。流砂に巻き込まれる虫の如く」
「なるほど……」
妙に実戦豊富な提言に、思わず唸り声を上げながら頷く。
そうした時、ようやくヨーン達がすぐ近くまでやって来ようとしていた。
足音やぶつかり合う金具の音が、ここにまで聞こえている。
そうすると、人間より余程聴覚に優れる獣の事だ。
赤熊もまた、こちらの動きに気付いた。
顔をこちらに向け、唸り声を上げて毛を逆立てている。
「お嬢様、参りましょう。こちらの指示に合わせて、魔力を扱って下されば大丈夫です。赤熊は一歩たりとも近付けさせません」
「わ、分かったわ……! 了解よ」
カーリアが歩き出すのと同じくして、その背に隠れて歩き出す。
何も見えないのも怖いので、半分だけ顔を出す様な形だ。
カーリアはスカートの裾を捲ると、太ももに巻いたベルトから、小型のナイフを取り出す。
手の中でくるくると転がしてから握る姿は、武器に精通している技術力の高さを思わせ、頼り甲斐が何倍にも増えた。
その上、魔獣の殺意が吹き付ける様に襲ってくるのに、まるで臆した様子もない。
頼りになり過ぎて、逆に不安になる。
カーリアの過去に何があったのか、こんな場合なのに、余計気になってしまった。
「お嬢様、そろそろ良いですよ」
声を掛けられ、足元の土に魔力を通す。
いつもやっている事の延長だから、それ自体は何の気負いもない。
警戒したまま近付こうとしない、赤熊の直下まで魔力を制御すると、一気に力を開放する。
ドゴォォン、と盛大に土が舞い、まるで間欠泉が吹き出したかの様だった。
赤熊も同時に上空へと持ち上げられ、そのまま地面へ叩きつけられる。
だが、それで終わりではない。
土の波に攫われ身体が横転し、起き上がるより前に別方向から、また土が襲う。
いま赤熊がいる場所は畑でないから好き放題できているが、もしここが畑だったら、ここまで大胆な事は出来なかった。
このやり方は、あまりに土を痛め過ぎる。
後先考えないから出来る、土を使った波の奔流だった。
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