守るべきもの その4
「ふんぬぅぅぅ……ッ!」
魔獣を転がせ、と言ったカーリアの指示は、まさにその通りになった。
赤熊は突進力が強く、一度走り出したらまず止められない。
低い姿勢から四足で駆け出されたら、普通は逃げるか、避けるかしか出来ない。
しかし、魔術というのは、そうした常識を壊してしまうものでもある。
駆け出すには、土を踏み、蹴ってやらねば進めない。
だが、その土が柔らかすぎると、足が沈んでしまうだけで、前へ踏み出す事すら出来なくなる。
そうしている間に横合いや、あるいは正面から土が襲い掛かって、赤熊の巨体を吹き飛ばした。
土による蹂躙であり、口にも目にも土が入ってもがき苦しんでいる。
土の上にいながら溺れている有り様で、後ろで控えている十名程の男衆はポカンとしていた。
「すんげぇな……」
「魔法って、あんなヤベェんか……」
「いつもウチの子、あれで遊ばせて貰ってるのにな」
「見ろよ。あの赤熊、何にも出来てねぇ……」
「でもよ、苦しがって見えるけど、あれじゃ殺せねぇんだろ?」
呆けた男衆は、毒気を抜かれて、もはや完全に観戦モードだった。
手に鋤や鍬など、取るもの取って駆け付けていた当初と違い、子ども同士の喧嘩でも見ている様な気の抜けようだ。
しかし、実のところ外から見えている程、楽な展開ではなかった。
赤熊は土から抜け出そうと必死で、その土を操っている相手が誰か、それを良く分かっている。
抜け出せなくとも、ひたすら足掻き、その眼光に殺意を乗せて睨み付けていた。
それが身震いする程の恐怖を呼び起こす。
背中は既にぐっしょりと汗で濡れ、魔力を込めるのに、力んだ両腕を身体の中心に寄せて捩った。
気を抜けば、逃げられる。
それが分かっているから、こっちも必死で魔力を練った。
「お嬢様、穴を掘って下さい。深く」
「う、うん……!」
地層を抉った回数も、計り知れない程ある。
魔力の流れを下方へ精一杯伸ばせば、それに呼応して穴が出た。
赤熊は穴に嵌って、鼻面が僅かに見える程まで下がった。
腕を満足に振れる広さでもないので、このまま押し込めると思ったのだが、畳み掛ける様にカーリアが叫ぶ。
「深く、もっと深く!」
言われるままに、更に穴を掘る。
ボゴン、とくぐもった音と共に赤熊の鼻先も消え、更に大きな音がして、もう一度落とす。
穴からはその衝撃で土煙が上がり、怒れる獣の雄叫びも同時に上がった。
「そ、それから……!?」
「男衆、前に出て!」
突然声を掛けられた彼らは、互いに顔を見合わせる。
既に楽勝ムードで、自分達の出る幕はない、と思い込んでいたようだ。
とはいえ、女子供だけに戦わせられない気持ちは本物なのだろう。
おっかなびっくりではありつつも、カーリアの横に並んで武器を握った。
「そ、それで……どうすればいい?」
「そのまま構えていて下さい。すぐに奴が顔を出します」
「え、だ……出すの?」
満足に手足も動かせない筈だ。
単に深く掘っただけだから、土を柔らかくするなど工夫はしていないが、だからと登れるほど簡単ではない。
半信半疑に思っていると、赤熊の雄叫びは近く聞こえてきて、土煙も断続的に続いている様に見える。
まさか、と思うのと同時、その鼻面が顔を出してきた。
「で、出てきたぞ!」
「ほんとに出た!」
男たちは情けなく狼狽えて、武器を構える事もせず慌てている。
そこにカーリアが活を入れるように声を上げた。
「お嬢様、頭だけ拘束して下さい! 自由にさせないで! 男衆、武器で顔を突いて!」
「う、うん……!」
既に顔だけ半分出ていたものに、首輪を付ける様に土を被せる。
周囲に土を注ぎ込み、身体まで拘束しようとした。
しかし、赤熊は身体を揺らして暴れるし、深く掘った穴に土が落ちていくだけで埋められない。
だが、それで十分の様だった。
男達が雄叫びを上げながら突撃し、その顔目掛けて農具を突き出す。
目や鼻、口など、とにかく当たるに任せて、力加減も分からず殴りつけた。
「オラ、喰らえ、こいつ!」
「もっと強くだ、強く押せ!」
「んなろ! この! おら!」
腕は頭より高く出ていないので、怪我の心配はない。
それで大胆になったのか、最初は腰が引けていた攻撃も、更に苛烈になっていった。
「ブゴォォォォオオ!!」
土は常に首を拘束しようと流れ込み、腕を上げようと暴れていた赤熊は、上手くいかずに苛立たしい叫び声を上げる。
しかし、今更その程度で臆する男たちは居ない。
何度も何度も、その頭に農具と叩きつけ、突きつけ、殴りつけた。
赤熊の顔は傷だらけの血だらけになり、鼻は半分なくなっているし、片目も潰れている。
しかし、魔獣はこんな事ぐらいで死にはしない。
時間は掛かっても、その傷も癒えてしまうだろう。
それが分かっていても、男たちは怒号を上げて農具を振り下ろし続けた。
その間にも土は穴の中に埋まり続け、最後には完全に土の中に埋め込んでしまった。
赤熊は土の中から顔を出して、口を半開きにしたまま、だらりと舌を投げ出している。
殺気ばかりの眼光も、今では白目を剥いて、荒く息を吐き出すだけだった。
「勝った……?」
ポツリと言葉を吐き出すと、男たちも喝采を上げて腕を上げる。
「勝った、勝ったぞ!」
「やった!」
「俺達だってなぁ、やりゃあ出来るってなもんだ!」
互いに抱き合い、喜びも露わにする横で、カーリアだけは怖いほど真剣な目を向けていた。
どうしたの、と声を掛けようとしたのと同時、赤熊が吠えて土から片腕が飛び出す。
「ブゴォォォォオオ!」
「やべ、やべぇぞ、逃げろ!」
先程の興奮など投げ捨て、男たちはカーリアより後ろに下がった。
赤熊を拘束しようと更に土を入れようとしたが、既に一本腕を逃がしているので、そこを基点に身体を持ち上げられてしまった。
「フゥーッ! フゥーッ!」
興奮し、鼻息も荒い赤熊は、土の勢いを物ともせずに抜け出した。
こちらとしても魔力の消費は激しいが、まだ尽きた訳ではない。
また同じ事を繰り返してやる、と魔力を土に流した時、カーリアが空いている方の手を上げて止めた。
そして、ナイフを赤熊へと突きつける。
一瞬の静寂――。
すると赤熊は顔を背けて、身体を引き摺りながら森へ向かい始めた。
時折、後ろを振り返り、こちらが追って来ないか確かめている。
そこにあるのは、間違いない恐怖だった。
よく見ると、その表情まで恐怖で歪んでいる気がする。
抜け出された時はどうしようかと思ったが、どうやら上手くいったようだ。
「今度こそ、勝ったと思っていいのよね……?」
「間違いないでしょう。あのまま埋めていても、いずれ逃げられていました。ずっと睨み合いしている訳にはいきませんし、騎士団の到着より早く、お嬢様の魔力の方が先に尽きます。本来の目的は達成できました。まず、上々と言って良いでしょう」
「そうよね……!」
身体を完全に脱力させて、土を制御していた魔力を放り出す。
それを合図として、それまで固まっていた土まで、脱力したかの様に形を崩した。
周囲などお構いなしに暴れた為、地面はいっそ憐れなほど荒れてしまっている。
ここが畑なら、きっと畑主は失神しただろうと思える程だ。
「でも、とにかく、終わったぁ……ッ!」
元より膝は笑っていたが、安心した所為で完全に力が入らなくなって、尻もちを付く。
地面に足を放り出して座り込み、大きく重い呼吸を繰り返す。
そこにヨーンを始めとした男衆が群がって、肩を叩いたり頭を撫でたりと揉みくちゃにして来た。
「やぁ、凄い! ほんっと凄いよ、セイラちゃん!」
「まさか騎士様じゃなくて、俺達が魔獣追い返すなんてなぁ!」
「馬鹿おめぇ! それだってセイラちゃんが赤熊弱らせて、動けなくしてたからだろ!」
「そりゃそうだ。一番凄いし、偉いのはセイラちゃんだ! こんなちっこいのに、村ん為に身体張ってくれてよぉ……っ!」
喜ぶ声、興奮する声、野次する声と様々だったが、中には涙ぐむ者までいた。
中には両手を握り、胸の前で様なポーズをしている者までいる。
流石にそこまでされるのは居心地が悪く、周りの人に言って立たせて貰った。
「皆、よく戦ってくれたわ。あたしが凄いんじゃないわ。皆が凄かったのよ」
「いや、そんな事ぁねぇ! 俺らなんてオマケだ。皆だって、そう言う!」
「あたしだって、皆が居るから、何とかしてくれるって思ったから力を出せたのよ! 土を被せるだけじゃ怒らせるだけで、魔力が切れた時、きっと食べられてたもの。だから、あたしも凄いけど、皆も凄いのよ!」
「いや、そうじゃないんだ、セイラちゃん」
皆を代表する様に、ヨーンが一歩前に出て膝を折る。
彼との身長差は大きく、目線を同じくする為にした事だった。
その筈なのだが、それが正しい行いの様に映ったらしく、他の男も同じ様に膝を付いた。
「伯爵家の人間が、俺たち村の為に戦ってくれた。それが嬉しいんだ。そうした人が上にいるって事が、俺は誇らしい。一緒に土で汚れて、同じ飯食って、同じ事で笑ってくれるセイラちゃんだから、俺は一も無く手助けしたいと思った」
「そう言ってくれるのは……嬉しいけど」
「本当なら、もっとちゃんとした礼儀で言うべきなんだと思う。でも、そんな方法も知らないし、きっとセイラちゃんも嫌がるだろう?」
「そうね、嫌だわ」
「でも、今だけは本当に感謝してるって言いたいんだ。今だけはセイラちゃんじゃなく、伯爵家のセイラ様にお礼を言いたい」
そう言って背筋を伸ばし一拍置くと、うなじが見える程、深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
『ありがとうございました!』
ヨーンに続いて、他の男衆も頭を下げ、一斉に礼を述べる。
あたふたとして首と手を左右に振るも、そもそも見えていないので反応もしてくれない。
それどころか、いつまで経っても顔を上げなかった。
どうしようと顔を巡らせていると、カーリアと目が合う。
目線と口パクでどうするの、と聞くと、いつもの無表情のまま、掌を上にして持ち上げるジェスチャーを見せて来た。
起こすように言え、という事だと察し、そのまま口に出す。
「いや、あの、大丈夫だから。顔を上げて頂戴」
そう言えば、ヨーンたちは素直に顔を上げる。
次は、とカーリアに顔を向けると、げんなりとした息を吐かれて手首を振られた。
好きにしろ、どうにでもしろ、とでも言いたげで、何と言うものか困ってしまう。
「あー……、その。ありがとう。えぇ、感謝してくれて。頑張って良かったわ。本当よ。……でもほら、こういうとき何て返したらいいのか――もうっ、早く助けてよっ!」
弱り切ってカーリアに叫ぶと、朗らかな笑い声がヨーンから上がった。
「いやいや、悪かった。困らせる気なんかなかったんだ。ただ、いつもセイラちゃんが良いって言うから甘えてたけど、本当はちゃんと礼の一つもしとかないとって、前から思ってたんだ」
「本当にな。畑だけでも良い思いさせて貰ってんのに、未だにセイラちゃんのこと悪く思う奴いるからな」
「今日の事を知りゃあ、そんな事も言えなくなるだろうよ! もっと普段から愛想よくしとけって、今度から言っとくから!」
親がアレなのだ。
憎いと思えば、その子まで憎く思う事もあるだろう。
だが、今後の事でやり易くなったと思えば、そう悪い事件でもなかった。
「皆からの感謝はしっかりと貰ったから! さぁさ、立って頂戴! お礼なんていいのよ、あたしがしたくてしたんだから!」
「まぁ、セイラちゃんがそう言うならなぁ……」
「それに、葡萄の事、ワインの事で、色々お願いするかもしれないわ。その時に協力してくれれば良いから!」
「そりゃあ、葡萄じゃ随分、こっちも助けられたからなぁ。また何かって言うなら、勿論手伝うさ」
ヨーンが頷くと、男たちも口々に何かを言っては頷き合っている。
誰もが肯定的で、協力的だった。
怪我の功名、今後の新ワインの軸に展望が見えて、大きな笑みを浮かべた。
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