未来への展望と渇望 その3
長らくの不安と心配で、心と身体を緊張させていたエレオノーラだ。
年齢以上に幼さを残しているようだし、その心細さから大泣きしてしまうのも仕方がない。
しかし、ここへ使用人が踏み込まんで来てしまうと困るのだ。
耳を澄ませば、誰かが廊下を歩いて近付いて来ている音がする。
扉の前で音が止まって、血の気が引いた。
エレオノーラを引き剥がす訳にもいかず、覚悟を決める。
この際、見つかってしまうのは良いが、せめてクリスティーナに適切な治療や処方するところまで待って欲しい。
どう説得するか迷っていると、ノック音がして、ビクリとエレオノーラの肩が震えた。
彼女も当然、同じ懸念を抱いているだろう。
この場で私の存在を知られるのも問題だし、このまま放り出されてしまうと更に問題だ。
どうしよう、と縋る顔を向けられて、口に指一本立ててから、その腕をそっと引き剥がす。
ベッドの下に隠れる、というジェスチャーをして、頷き返って来るのを待ってから床に這いつくばった。
よく掃除されている部屋とはいえ、流石にベッドの下には埃が積もっている。
天蓋付きの脚付きベッドだから、身を滑り込ませるのは問題ないとしても、少々嫌な気分にさせられた。
顔だけ出すところまで身体を隠し終えると、腕を扉に向けて行け、と合図する。
エレオノーラはこくこくと数度頷いてから、ゆっくりと扉へ近付き――。
そして、扉に手を掛ける直前に、ベッドの下へ完全に姿を隠した。
扉を開ける音と共に、エレオノーラが息を呑む気配がする。
「だ、誰ですか……!?」
「使用人ですよ、お嬢様。そこの、……ベッド下に隠れて、虫かネズミの真似が大好きな妖精の」
「あ、えっ……?」
位置的に姿は見えないが、カーリアが的確に私の居場所を指差したらしい。
それは動揺するエレオノーラの声音から分かった。
そして、どうやら使用人を自称する人は味方らしい、と遅れて理解したようだ。
「あ、ど、どうぞ……」
「失礼いたします。必要かと思い、勝手ながら色々準備して参りました」
「え、あ……?」
恐らく、エレオノーラを押し退けて入って来たのだろう。
彼女の困惑した声を押し退けて、床を踏む音が入り込んでくる。
「そこの妖精……もといネズミ、早く出てきて下さいよ。時間はそんなに余裕ないんですから」
「よくも言ったわね、裏切り者の分際で。逃げるんなら、一緒に担ぐとかする気遣いしろって言うのよ」
這いずり出ながら愚痴を零しても、カーリアは全く悪びれる様子がない。
それどこか、鼻を鳴らして小馬鹿にしてくる始末だ。
「何を言うんですか。そんなの、自力で逃げられない方が悪いんですよ。恨むのなら、自分の足の短さを恨んで下さい」
「関係ないでしょ、別に足は……! 大体、短足じゃないし!」
「お嬢様、病人の前ですよ。お静かに。……常識を疑いますね」
「なんでそんな――ッ! ……そんな非難する目で、見られないといけないのよ……! あぁ、もう……っ。呆れられた目で見られてるじゃないのよ」
呆れというより突然の事態について行けず、ポカンとした顔を晒しているだけだが、その一言でエレオノーラは我を取り戻した。
「あ、あの……こちらのメイドは、本当に……?」
「えぇ、安心して良いわ。……でも、何でそんな堂々と? その手に持って来たやつ、どっから取ってきたのよ?」
持参したと思しき銀のトレイには、何やら粥っぽい食事が乗っていて、もう片方の腕には真新しいシーツを抱えていた。
「食料庫に丁度よいメッツ麦がございましたので、粥に調理し持って来ました。シーツはリネン室から。きっと汗を多くかいたでしょうから……あぁ、手拭いもそこから一緒に」
「いやいやいや。何を堂々と言ってくれちゃってんの。使用人とか居たでしょ? 調理場なんて使ったら、そんなのすぐにバレるでしょ。一体どうしたのよ?」
「昏倒させた上で、鼻薬を嗅がせました。三時間は確実に起きません。ご安心を、姿は見られていませんよ」
「そういう問題じゃ――! いや、違うわね。良くやってくれたわ。これで余計な事を気にせず済む」
にっかり笑って褒めてやると、カーリアは澄ました顔で小さく頷いた。
しかし、未だについて行けていないエレオノーラは、驚嘆した顔を交互に向けている。
「そちらのメイド……、いつから? いえ、どうして事情を? どこから聞けば……いえ、理解すれば……?」
「別に深く理解する必要ないわよ。これはこういう奴だから。気配を隠して近くにいて、事情は聞くなり見るなりして察したんでしょ。……で、とりあえず良きに計らってみた結果が、さっき聞いた通りの内容」
「は、はぁ……? でも、どうして食料庫とかの位置を……」
その辺りは、一年も通っていれば、カーリアなら把握していて当然だろう。
リネン室も同様で、邸内の間取りから、通常使用人がどこにいるかまで、詳細に知っているに違いない。
さっき言った使用人も、きっと起きた時に居眠りしてしまった、と勘違いする様な場所に寝かしつけている事だろう。
「まぁ、とにかく……サッサとお母様を診てしまいましょうよ。着替えの方は、あなたにお願いね。寝間着の場所までは流石に分からないし」
「は、はいっ。分かりました……!」
村での治療はその多くが、こちらから家に赴く事が多かった。
診療所みたいなものはないし、病人は臥せっていて家を出られない。
だから、押し掛け治療をする事が多く、その際には汗を拭ったり着替えさせたり、介助も多くしていたのだ。
今更クリスティーナの汗を綺麗に拭って着替えさせ、シーツを変えたりするのは全く問題にならなかった。
ただ、村民と違って良い寝具を使っているので、汗を深く吸い込んでしまっていてシーツ一枚ではどうしようもない。
手拭いなどを厚めに敷き詰めるといった、急場凌ぎをして、その場はとりあえず良しとした。
そんな事をしていれば、流石にクリスティーナも目が覚める。
朦朧としていて目の焦点は合っていないし、一人で身体を起こす事も出来ないようだ。
枕の位置などを調整し、何とかベッドの上で身体を起こさせると、そのまま食事を摂らせた。
「う……っ、ゴホッゴホッ! あぁ、誰……。エレオノーラ、あなたなの?」
「お母様、大丈夫……? 今、妖精さんたちが助けてくれてるから……っ」
「ゴホッ、そう……ふふっ」
意識がハッキリしていないから、こちらの姿も見えていないようだ。
恐らく、人がいる事までは分かっても、その人相までは掴めないのだろう。
その間に、カーリアがテキパキと準備を済ませ、麦粥を口元へと運んでいく。
「どうぞ。よく煮込んでいますので二、三度噛むだけでも結構です。とにかく、胃に何か入れて下さい」
「……苦しいわ、それに怠いの……。水だけで……」
「いけません。これから薬を飲んで貰いますから。少しでも胃に何か入れた方がいいです」
「くすり……」
そう言われると、無下に断る事も出来ないようだ。
差し出されたスプーンを、啄むよう口に含み、ゆっくりと咀嚼して飲み込む。
そうした緩慢な動作の合間にも咳をして、身体を起こしているのも随分辛そうだった。
それでも、水を適宜口にしながら、粥も口に含んでいく。
多すぎても吐いてしまうので、頃合いを見計らってトレイを下げた。
少し落ち着いたところを見計らって、今日も葉包に入れていた薬草を取り出す。
「これは特別製よ。恐ろしく苦いけど、この根には抗菌効果と滋養が多く含まれてるの。干して脱水した後、粉末状にすれば飲みやすいと思うんだけど、今は……」
口元に根を持っていき、魔力を通して根からエキスを取り出す。
ほんの一滴で、三本粉末にした物より効果がある。
咳が激しいと粉を飲むのは辛いので、こういう形で摂取させた。
「――げほっ! えほっ!」
「苦いからね……、えづいちゃうのよ。水飲ませてあげて」
「は、はいっ。――お母様、水です」
差し出した水を口に含み、苦みを追い出すように嚥下する。
それで大きく息を吐くと、それでまた咳をしてから気絶するように眠りに落ちた。
「お母様……!?」
「大丈夫、身体が休みを欲しただけ。水と栄養を取ると、すぐ眠たくなるのは良くある事なのよ」
「そ、そうなんですね。それで、お母様は……?」
「良くなる筈よ。必要なのは栄養だし、単にそれだけでも良いって話でもないんだけど……。とにかく汗は一杯かくだろうから、水を沢山飲ませて。できるなら、ほんのちょっと塩と砂糖を入れて」
砂糖と塩と水、その対比は正確な方がいい。
エレオノーラは母を助けようと必死で、助言について聞き逃すまいとしている。
経口補水液のレシピを、懸命に記憶しようとしていた。
「薬は用意して貰えないとの事だから、こちらで用意するわ。麦粥は……どうかしら? 家の人に用意して貰えそう?」
「それは……。頼んでみないと……確かな事は……」
「何の為の使用人よ。役に立たないわね」
「私達の為に動くと、それはそれで罰になっちゃうんだそうです。病気の時は、普段より近付けないって……」
病気が伝染るから、という理由ではないだろう。
公爵家から言い含められていて、手助けする事を許して貰えないと見るべきだった。
「仕方ないわね……。冷めた麦粥ってひたすら不味いから、温め直せる状態で置いとくわ。料理の許可は貰えなくても、温めるぐらいはしてくれるでしょ」
「そう……ですね。多分」
「自分で作ってみた、とか言い訳なさい。温め直して持って来て、とか言うの。お母様が大事でしょう?」
「は、はいっ。勿論です……!」
「大変だろうけど、長く居てあげられないから、大事なところはあなたがしなくちゃいけない。頑張って」
「はいっ、が、頑張ります!」
拳を握って、身体をフルフルと震わせる。
母は自分が守る、という気概に満ち溢れていて、その姿は非常に好ましい。
しかし、やはりどこまでも危うさがあった。
「……また来るから。薬も足りないし、これがあたしの知ってる病で間違いないなら、大抵はあのエキスでそれなりに快復すると思うけど……」
「ほ、本当ですか!?」
「明日、また同じ時間に来る。その前に、夜にはもう一度、薬を届けさせるわ」
「え、夜にも……?」
エレオノーラはきょとんと目を開いたものの、その顔には喜びが満ちている。
大いに頷いて見せてから、どうしてか説明した。
「滋養エキスは作り置きできないのよ。すぐ劣化しちゃうから。麦粥食べて、エキスも飲めば、明日の朝には熱も引いてる。そしたら、すぐに良くなるわ」
「あ、ありがとう、ございます!」
大袈裟に頭を下げたところに手を振って、ところで、と声をかける。
「あなたは同じ病気になった?」
「いえ、私は……」
「これ、
「いえ、そこまで、してもらわなくても……」
既に多くを受け取った。
これ以上は貰いすぎ、そう思っているのかもしれない。
だが、ここで看病できる人はエレオノーラだけなのだ。
クリスティーナを生かそうと思うなら、ここは妥協すべきでなかった。
「いいのよ。そこであんたも倒れてどうするの。入れ替わりに病気なられても困るわ。いいから、薬が届いたらあなたも飲むの。いいわね?」
「は、はい……っ」
「それじゃ、行くから」
「あ、あの……!」
手を振って去ろうとしたところで、その背に声が掛けられる。
エレオノーラは再び頭を――深く、深く頭を下げて礼を言った。
「本当に、ありがとうございました! なんとお礼を言ったらいいのか……っ!」
「いいのよ。妖精さんは気紛れなの」
笑って手を振ると、今度こそ扉を開けて邸宅から出ていく。
その背には、嗚咽と感謝が綯い交ぜになった言葉が、何度も何度も感謝を伝えていた。
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