先を見据えた職業体験 その2

 現在は暦の上で春であり、日本では桜が芽吹き始める時期だ。

 温かな風が頬を撫で、晴れた空も暑過ぎず心地よい。

 それは葡萄にとっても同様で、新芽が出て来る萌芽の季節だった。


 だが同時に、葡萄作りの脅威となっているのが、霜による被害だ。

 通称、霜害そうがいと呼ばれ、まだ寒い夜などで気温が低下し、若芽が凍って壊死してしまう事を指す。

 冷害による収穫量の減少なども報告されていたし、これは単に収穫量だけでなく、ワイン品質の低下にも繋がる。


 霜害対策として有効な対処というのは現状なく、焚火や藁を燃やして葡萄に直接、暖を取らせるしかない。

 今もワイン畑では、夜の間に使ってしまった藁の燃えカスを片付けたり、新たに藁を追加する様子も見られた。

 それと同時に、畑の上に立てた柱同士を紐で結び、いずれ伸びて来る枝を、その紐に沿わせる前作業も並行して行われている。


 子供が木製のバケツに水を入れて持って来ては、葡萄の苗木に柄杓で撒いた。

 葡萄は水分を多量に必要とする植物だが、水はけの悪い土地だと水分が滞留し過ぎて品質を落とす。

 子供の手付きは慣れたもので、よどみなく適量撒いているように見えた。


 いや、とその手元を見て思い直す。

 腕力の問題で、一度に多く掬うと零してしまうのだ。

 だから、子供が綺麗に撒けるぐらいが適量と知っていて、それで仕事を任されているのかもしれない。


 古くからの知識と経験から、こうした分担作業が生まれたのだろうか。

 妙に感心した気分で見つめていると、背後からカーリアに声を掛けられた。


「お嬢様、随分熱心に見ておられますが、何か気になる事でも?」


「そのお嬢様って言うの、ここでは止めなさいよ。……って、今更かしらね」


 何しろメイド服で日傘まで差している。

 それで自分は平民の服を着ているのは、丸きり馬鹿みたいだ。

 このメイドは味方をしたいのか、それとも失敗させたいのか分からなくて対応に困る。


「まぁ、別に大した事はね……。ただ、感心してたのよ。先人の知恵というか、そういうものは早々変わらないものだって」


「はぁ……、国ごとに特色なんかも違うとは思いますが」


「そうね。品種や立地によっても、やり方は変わるみたいだし。たまたま、私が知っているのと同じ方法だっただけかも」


「たまたまというか、お嬢様が知れるものは、先代様まで残された記録しかないのでは?」


 それもそうだ、と迂闊な発言に口を噤む。

 カーリアが先の発言に小さな違和感だけしか覚えなかったのは、勝手に記録を読んでいたから、と思われたからだろう。

 この十日は暇な時間が出来れば、魔力鍛錬の本しか読んでいなかったのだが、何の本を読んでいたのかまで、彼女は知らない。


 外に出ると言った時点で、そうした本から学んでいたのだろう、という推測はある種当然だった。

 ただ、過去の記録を探して読んでおくべきだった、と今更ながら思い付き、顔に渋面を浮かべる。


「どうしたんですか、クルミの皴みたいな顔をしだして。……トイレ行きたいんですか?」


「どんだけ失礼なのよ、あんた。違うわよ。ちょっと反省してただけ」


「する時は、早めに言って下さいね。漏らしたりなんかしたら、近寄りませんからね」


「だから、違うっての! ……まぁ、いいわ。単に仕事の内容を見てみたいだけだから、あんたも変な茶々入れないでよ」


 暫く道沿いに進み、作業風景を見るともなく見る。

 前世の知識として、多少ワイン造りについて知ってはいるが、所詮は本で読んだだけ……専門的に学んだ経験はない。

 勿論、自分で畑を手入れした事もないので、本当に上辺の知識を持っているだけだ。


 だから、この世界において正しいとされている事と、日本で知った知識に違いがあるとしても当然だと思う。

 しかし、それでもおかしいと思える部分はあった。


 土地は広い。

 そして、現世でもワイン造りは手作業が基本だ、と聞いていた。

 機械を導入しているシャトーもあった筈だが、一流と聞く場所は昔ながらの手法に拘っているという。


 畑の規模にもよるだろうが、一つのシャトーに十人は畑弄りに使われるらしい。

 いま見える範囲には十人も居ないのに、畑の数はいつか見た写真と同じぐらいはある様に思う。

 これで本当に、葡萄の品質管理が行き届くのかどうか、甚だ疑問だった。


「人手不足が深刻……、それって本当みたいね」


「オルガスさんから聞いたんですか? どこもギリギリでやっている、と聞いてましたが……その通りで間違いないようです」


「ギリギリ……なのかしらね? ギリギリ足りてない、の間違いじゃない? 見たところ、一家で畑を維持しているみたいだけど、人を雇わずやれる規模じゃないでしょ……」


 それこそ、寝る間を惜しまず作業して、それでどうにか維持している状況だろう。

 実際、この時期は夜に火を絶やせず、交代で藁の補充などせねばならない筈だ。


 大人の顔に疲れが多く見えるのも、その所為に違いない。

 その時、畑の方からぶっきらぼうな少年の声が、聞こえがよしに響いて来た。


「へっ、貴族の嬢ちゃんが勝手言ってら……!」


「……あら、それって誰のこと? ほら、あんた、言われてるわよ」


 声の方には敢えて向かず、素知らぬ方へ目を向けてからカーリアを見る。

 しかし、返って来たのは無慈悲な裏切りだった。


「いえ、どう聞いても今のは、お嬢様に向かってのものじゃないですか」


「だから、ちょっとは誤魔化す努力しなさいよ! わざと惚けたのに、単なる馬鹿にしか見えなくなったでしょ!」


「あながち間違いじゃないですし、それは別に良いんじゃないですか?」


 いよいよ拳で分からせるしかない、と身体を震わせて飛び掛かる。

 そして、いとも簡単に鎮圧されて羽交い絞めにされた。


「ほら、お坊ちゃん。今ならこのクソ生意気なお嬢様に、好き勝手できますよ。錆びた釘なら鞄に入ってますので、それを使うチャンスです」


「何をさらっと、恐ろしい凶器渡そうとしてんのよ! 変なモン用意してんじゃないわよ!?」


「万が一死にますけど……。まぁ、万分の一の確率って事ですしね」


「そういう意味で使われてるんじゃないのよ、この馬鹿!」


 羽交い絞めから逃れようと暴れていると、声を掛けて来た少年は、目の前の光景を疑うような目を向けて固まっている。

 脛の辺りを必死で蹴っていると腕が緩み、それでようやく自由になった。


「あー……、まぁ、そういう訳だから。それじゃ行くわね」


「いや、何事も無かったみたいに行くなよ。無理だろ」


 少年から至極真っ当なツッコミを受け、通り過ぎようと踏み出した一歩が止まる。

 実際、自分でも無理が通ると思っていなかったので、素直に少年へ向き直って胸を張った。


「まぁ、そうよ! それで、一体何の用? 普通の村人に対して、何か言いたい事があるなら聞いてあげるわ!」


「……まだ、そのノリで行くんですか。いえ、そうしたいと言うなら止めませんけど」


「うるさいわね! 話が進まないでしょ! ――あんたも用があるなら、さっさと言いなさいよ!」


 剣幕に押され、少年は一瞬言葉を噤んだが、すぐに気力を取り戻して一歩踏み出した。


「べ、別に呼び止めてまで言いたかった訳じゃねぇ! 平和そうな顔して、苦労知らずで歩いてるから、ちょっと愚痴ってやっただけだ!」


「別に脳内お花畑な訳でも、苦労だってしてるんだけどね。苦労の種類が違うだけで……って、そんなこと言っても仕方ないわね。あんたも苦労があるのは本当なんだろうし」


「へ、へっ……! なんでぇ、気持ち悪ぃ! 急に物が分かった様な口利きやがって……!」


「それは申し訳ないわね。話は終わり? もう行っていい?」


 少年の年の頃は十歳前後、幾らか年上の様だが、子供の喧嘩以上の会話は成り立たないだろう。

 あちらも何か嘆願がしたい訳でもなく、自分で言ったとおり、単に道へ唾吐く程度の思いで言っただけに違いない。


 だから、これ以上付き合って時間を無駄にしたくない、と思って歩を再開させようとした。

 その時、そこに雷鳴もかくや、という大音量で怒鳴り声が落ちる。


「なぁにやってんだ、カイ!! サボって良いって誰が言った! さっさと戻れ!」


「ご、ごめん! 父ちゃん!」


 カイと呼ばれた少年は泡を食って逃げ出し、その代わりに土でツナギの服を汚した、三十手前の髭面の男性が近寄って来た。

 身長も高く、セイラから見れば、まるで巨人の様だが、すぐ傍まで来ると膝を追って目線を合わせる。

 怒鳴り声を聞いて、てっきり恐ろしい顔を想像していたのに、予想に反して、その人は優し気な瞳を持った男性だった。


「いや、申し訳ねぇな。息子にはしっかり、後で言っとく」


「いえ、こちらこそ仕事中に申し訳なかったわ。大事な時期でしょうに、こちらが無駄に時間を使わせてしまったの」


「そう言ってくれると助かる……あぁ、いや。助かります、だな。どうも、丁寧な言葉遣いってやつにゃ、慣れてねぇもんで」


「そういうものでしょうね。でも、そういうのは要らないのよ。あたし、単なる村娘だから」


「はぁ……」


 きょとん、とした顔を見せる男性に、カーリアが呆れた声をさせながら、ごく柔らかな口調で諭すように説明する。


「今は、どうもそういう事にさせたい様です。不敬があっても、不問に処する体裁が欲しいのでしょう。今日ここに、貴族の娘などいなかった、そういう形に持って行きたいようです」


「そうは言っても、今ここにいるんでは?」


「貴族の体裁っていうのは、そういうものですから。形の上で、ここに貴族がいる証拠はない、としておくだけで良いんです。さっきみたいな子供の言動に、難癖付けられなくなりますよ」


「お貴族様ってのは、よく分からんな……。道理に合わない気はするが……つまり、俺たちを思って……?」


「恐らく、そういう事なんでしょう」


 カーリアが頷くと、髭面の男性はホッと息を吐いて頭を下げる。


「いや、本当に申し訳ない。今もどうにか、自分だけ鞭打ちの刑でも受けて、息子だけは逃がして貰うつもりで声かけたんで……」


「しないわよ、そんなの……。時代錯誤が過ぎるでしょ」


 溜息をついて額に手を当て、それから男性の顔を見上げる。

 膝を折っていても、未だセイラの方が背は低いので、そういう格好になってしまう。


「それとも、今でも本気でやってるの?」


「見た事はないけど、やられたという話はチラホラ聞いてて……」


「常識を疑うわね……。まぁ、とにかく違うから……しないから。ちょっとね、聞きたい事があるのよ」


「えぇ、そりゃ……勿論」


 男が頷き返して来たのを見て、再び胸を張って声を上げる。


「農業の実態ってやつを知りたくて来たの。教えてくれる?」


「はぁ……。構わないですが……、何の為に?」


「当然、自分で出来るようになる為よ!」

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