第112話 死せる物語の湖

 泣きながら本を湖に沈めているひとがいる。

 本を真ん中で開いて、ページを下にして、そっと水面に浮かべると、まるで小舟のようにすうっと岸から離れていく。


 そのままどこまでも航海(湖だけど)していくのかも。

 

 しかし本は、次第に水を吸って重くなるのか、流れがゆっくりになり、だんだん沈んで、ついには水面下に潜ってしまう。

 澄んだ緑色の水の中へ、なかへと、本は沈んでいく。

 岸辺でそれを見ていたひとは、両手に顔をうずめて、いっそう泣いた。


――泣くぐらいなら、どうして本を手放したりするんですか?


 自然と口から出ていた。泣いているひとに対して、ちょっと意地悪な質問だと思う。


――だって、物語は死んでしまったのだもの。


 そう言ってその女のひとは、さめざめと泣いた。指の間からしたたり落ちる涙が、湖の水面に小さな波紋を起こす。湖の水は、あんがい塩っ辛いのかもしれない。


   *


 暗闇の中で目を覚ます。夢を見ていたことは覚えていたが、もうすでに大半を忘れてしまっている。わずかに残る断片は、鬱蒼と茂る木々、銀色に光る――水? それから


 きれいな、女のひと


 でもそんな夢のかけらも、すぐに少年の手をすり抜けて消えてしまう。ただ、いつもの夢をまた見たのだという記憶だけが、ぼんやりと残る。

 少年は鼻をすすりあげた。


 また、泣いていた。


 寝ながら泣いているなんてことは、絶対に誰にも言うことはできない。枕にごしごしと顔をすりつけて、乾いている方に寝返りをうって、布団を頭からかぶる。


 このまま夜が明けなければいいのに。


 そう思いながら、夜明けまでの束の間の眠りにおちる。もう夢は見なかった。

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