第6話 ホラー小説

 古いホラー小説を読んでいた。


 古いといっても、出版されたのは今から二十五年ほど前、小説の舞台も同年代に設定されている、ひと昔前のホラーで、当時のベストセラーだ。


 内容は、保険会社の社員が遭遇した、保険金詐欺と思しき事件。欲に駆られた人間が、信じられないようなえげつなさで保険金をせしめに行く、その恥も外聞もない、時には人殺しさえ辞さない人間の闇――三分の一ほど読んだだけだが相当に後味が悪く、化物や幽霊の類が出てくるわけでもないのに読者をゾッとさせる作者の力量に恐れ入りながら読んでいた。なるほど、これならベストセラーになるだろう。


 保険金詐欺の一例として、指を切断するという方法があるそうだ。他の指を欠損した場合よりも高い保険金が下りるということで、親指、それも利き手ではない方の親指を切り落とすケースが過去に何件も起き社会問題になったのだという。


 人間が、そこまで切羽詰まった極限状態に陥るのはいかなる状況においてか。


 例えば小さな事業を経営していて、自らの家族と社員及びその家族の生活が懸かっているような状況で、その事業を救うためにやむなく、という状況なら、自分もそんな心理状態に陥るかもしれない、と想像することはできたが、小説でいかにもっともらしく描かれていても、どこかリアリティを欠く気がした。社会問題になったというのが物語上の設定なのか、現実の出来事に即しているのか、あとでネットで調べて見なければならない、と思った。そのような事例が多発したのは、小説が設定されている時間より更に数十年前だから、現在より四十年かそれ以上昔の話と思われた。


 ふと、母方の伯父のことを思い出した。


 私が幼い頃に病気で亡くなっていたから、既に四十年以上が経過した現在、思い出すことなど殆どなかった人物だ。母方の祖母と同居し面倒をみていたのがこの伯父で、毎年盆暮れ正月にはこの伯父の家に泊りがけで遊びに行っていた。


 この伯父は、トランプで七並べをしても、子供相手だからといって手加減をしない人だったので、勝負事はたいていこの伯父が勝った。最もトランプに弱かったのは祖母で、これも子供の私に手加減したわけではなく本当に弱かったようだ。この祖母を、トランプ遊びの最中に、伯父が冗談で「バアサンは頭が悪いから」などとからかうのが、子供心に許せないと思っていた。私の祖母というのは勿論、この伯父の母親なのである。


 母方の祖母は、真夏以外は着物で過ごすような人で、伯父の家は、建て替え工事の後でぴかぴかしていた記憶がある。すぐ近くには、この伯父の経営する二階建てのアパートなどもあったはずだ。伯父の本業は小さな工場の経営で、夏休みには工場の裏の雑木林にカブトムシの幼虫を捕りに行った記憶がある。これらは、私の数少ない幸福な子供時代の記憶となるはずだった。


 しかし、伯父が病死してから、事態が一転した。


 伯父の工場経営は実は火の車で、借金だらけだったことが判明したのだ。遺された伯父の家族――祖母、伯母(伯父の妻)、三人の息子達は、家を売り払い、狭いアパートに引っ越すことを余儀なくされた。


 なぜこんなことを思い出したのか、最初はわからなかった。両親が離婚し父に引き取られた私は、母と母方の親戚とは交流を断って久しかったからだ。だが、すぐにああ、と合点がいった。


 伯父とは度々トランプを一緒にしたし、伯父は特にそれを隠そうとしていなかったから、子供の目にも明らかだった。


 私の記憶にある限り、伯父の左手には親指がなかった。


 右利きの人間は、手持ちのカードを扇状に広げて左手に持つものだが、伯父は右手に持ってカードを広げていた。誰からいつ説明を受けたのかは覚えていないが、工場の機械で誤って切断してしまったのだと幼い私は了解し、それ以上本人に追及することはなかった。あったものが突然なくなれば不思議に思っただろうが、切り口、と呼べるような傷跡はなく、仮に、親指は初めからなかったのだ、という説明を受けていたら、ああそうかと納得しただろうと思う。


 伯父が病死するまでは、幼い私は(恐らく私の母や父も)、伯父の一家は、羽振りがいいのだと思っていた。あのぴかぴかの家で、伯父は姪の私をにこにこと迎えてくれ、親戚中の誰よりも高額なお年玉をくれたものだった。


 本当は借金まみれだったのに、体面を保つためにそれを誰にも、家族にさえ言えなかったというのは、さぞ辛かったのではないか、と子供心に気の毒に思ったものだった。


 その伯父の失われた親指が本当に事故によるものだったのか、それ以外の要因があったのかは、祖母も伯母も既に亡くなってしまった今は、もう知る術がない。

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