第87話 死神
「お前の寿命は、もうすぐ尽きる。お前を連れに来た。私は死神だ」
目深に被ったフードのせいで、顔の見えない男はそう言った。死神、なのだろう。本人がそういうのだから。恐ろしく背が高く、床まで裾が届くローブを纏い、無慈悲なカーブを描く、特大の鎌を持っている。
「そんな……」
まだ若い女は、くなくなとその場にへたり込んだ。そこは女が暮らす、粗末な小屋だ。
「私は、まだ恋を楽しんだこともないのに」
「地獄で悪魔の慰み者にでもなるがいい」
死神の声は冷たかった。
「では、私は地獄に堕ちるのですか」
「あたりまえだ。恋敵を危うく死なせるところだったんだぞ。あの憐れな娘の命が、お前の盛った毒のせいで尽きる前に、お前の方の寿命が来たのは幸いだった。しかし、それでも殺人未遂だ」
それでは、あの人を、あの小娘に盗られてしまう――
女は唇を噛んだ。彼女の気持ちを見透かしたかのように――いや、恐らく見透かせるのだろう――死神は言う。
「たとえ恋敵を一人亡き者にしたところで、あの男はお前の物にはならない。お前は、姿形は美しいが、心が醜く歪んでいる。あの男のように賢い者が、それに気づかぬと思うたか」
女は床に手をついて、うなだれた。白いうなじが露わになり、鎌で刈るには丁度いい位置だった。それに、もうそろそろ時間だ。死神は頭上高く大鎌を振り上げた。
「ちょっと、待って!」
女は急に顔をあげて、下から死神のフードの中を覗き込んだ。そこには顔があるはずだが、鼻の下あたりまで降ろされたフードの奥は漆黒の闇だった。女は心の中に冷たい闇が染み込んでくるのを感じ、身震いしたが、最後の気力を振り絞った。
「お願いです、待ってください!」
*
道行く女を、人も馬も避けて通る。
ほんの数ヶ月前まで、彼女は美しく、若い男ばかりか老人でさえ熱っぽいまなざしで彼女の姿を目で追ったものだ。
それがどうだ。
現在の女は、まるで老婆のように腰が曲がり、片足を引きずりながら、杖にすがるようにしてようやく歩いている有様。かつては黄金色に輝いていた豊かな髪はすっかり白くカサカサになり、ぼうぼうと皺くちゃの顔を覆っている。片方の眼窩は空洞を晒し、歯の抜けた口元は巾着のようにすぼんでいた。
一体彼女に何が起きているのか、と村人は不思議に思っていた。何かよくない病気だろうか。村人はおそれをなし、誰も彼女に近寄らないし、話しかけもしない。
「まだ死にたくない。なんでもするから、欲しいものはなんでもあげるから、もう少しだけ生きさせて!」
彼女は振り下ろされる大鎌の前で無謀にも、死神に泣いて縋ったのだった。
死神のフードの奥の暗闇から「ほう」という声が漏れた。彼女はぞっとした。あのフードに隠れた闇の中で、彼は笑っている。そう思っただけで、全身の血が凍りつく思いだったが、もう遅かった。
「なんでも、そう申すか」
「はい」
死神の骨ばった手――いや、それは実際、白い骨のようであった――が彼女の怯えきった顔の前に翳され、次の瞬間、顔に焼けた火箸を押し付けられたような熱と痛みが彼女を襲った。
「七日間の猶予をやろう。この綺麗な青い目玉に免じてな」
死神の手には、血まみれの目玉――彼女の左の眼窩から引きずり出され、血を滴らせた眼球が握られていた。
それ以降、彼女は右耳を削ぎ落され(三日間の延命)、左手を切り落とされ(二十日間の延命)、右足の腱を切られ(十五日間の延命)、片肺を握りつぶされ(八日間の延命)……二つあるものの片方を差し出しては、延命を請うてきた。しかし……
杖を持つ右手が滑り、彼女は倒れた。埃っぽいでこぼこ道だ。体に纏っている汚れた布を通して、尖った石が肉に食い込む。
歯を食いしばろうとして、上下とも死神に差し出してしまったことを思い出した女は、ニタリとゾッとするような笑みを浮かべたが、それを見た者はいなかった。忙しく行き交う人々の、誰も彼女を見ようとしない。
起き上がる力を蓄えるため、彼女はしばらく残っている方の手を地面についたままでいた。憐れな老婆に、人々はとことん冷酷だ。こんな人間たちの間で、自分は己の生まれ持った美しさを誇り、欲しいものはなんでも手に入ると思っていた。手に入れるために、何でもする権利があるとも思っていた。それがなんとも、今の彼女には滑稽に思えた。
硬い地面に座ったまま通行人を眺めつつ狂人のようにニタニタしている彼女に、声をかけるものがあった。
「大丈夫ですか?」
彼女ははっとした。その声には、聞き覚えがあった。
それは、かつて恋敵に毒を盛ってでも手に入れたかった男であった。
ハンサムだが、柔和な性格が顔に表れてどこか自信なさげな男は、微笑みを浮かべ、彼女に手を貸して立ち上がらせると、通行人に蹴られて遠くに転がっていた杖を拾って彼女に渡した。
「どうしたの、あなた」
そう言いながら、買い物を済ませて店から出てきたまだ娘と言っていいほどの若い女は、かつて彼女が毒を盛って亡き者にしようと
「一人で歩けますか」
「お宅までお送りしましょうか」
心底心配している顔で、二人はそんなオファーまでしてきた。彼女が誰なのか、全く気付いていないようだった。彼女が丁重に申し出を断ると、二人は仲睦まじそうに肩を寄せて去って行った。
根っから善良で、なんとお似合いの二人であることか。
彼女はそう思い、再び歩き出した。最初に片目を失った時、恋敵の娘や男がこのような姿を見たら、一体どう思うかと恐れたものだった。己の美しさを自慢に生きてきた女にとって、それは耐え難い屈辱のように思われ、怒りがかきたてられた。しかし、ついさきほど遭遇した彼等は、彼女が何者なのか気付いてさえいなかった。当然だ。美しかった彼女は、もうとっくに死んだのだ。娘の見せた哀れみの表情にさえ、今は何も感じなかった。
*
その夜、深夜より少し前に死神はやって来た。彼女は久しぶりに湯あみをし、精一杯身なりを整えて待っていた。
「前回通達した通り、もはやお前には私に差し出して延命を請うものがない。お前の命は、今宵で尽きる」
(わかっております)といつぞやの取引で死神に差し出してしまったため声を失っている女が心の中で呟く。
(ただ、最後に一つ)
「まだ何かあるのか。お前にはもう何も残っていないのに」
(あなた様のお顔を、見せていただきたいのです)
「なに?」
(フードの下のそのお顔を、最後に一目見てから死にたいのです)
女のたった一つ残っている目には涙が光っていた。彼女は、骨ばった手をおずおずと伸ばした。彼が目深に被っているフードに向けて。フードの奥は相変わらずの暗闇だが、彼は恐らく、戸惑っているのだろうと彼女は思う。胸が高鳴った。もうすぐ止まってしまう心臓なのだが。
しかし、その手がフードに届く前に、死神は大釜を振り下ろした。前にのばした腕ごと女の首が跳ね飛び、体はくたくたと崩れ落ちた。
死神には、女心など、わかろうはずがなかった。
女の死から三ヶ月ほどして、死神はまだ娘と言っていいほど若い女の元を訪れた。大鎌を持った恐ろしいフード姿の男から死の宣告を受けた時、娘はその大きな目から大粒の涙を流した。
「ああ、明日はついに最愛のあの人と結ばれるというときに」
よこしまな女に毒殺されかかった彼女の結婚式が、明日だった。
「あの人は、私がいなくなっても幸せに暮らせましょうか」
どうやら既に覚悟を決めたらしい娘は、床にひざまづいて両手を胸の前で組んだ。
「お前の伴侶となる予定だったあの男なら、半年ほど泣き暮らし、その後長らく絶望の日々を送るが、十年目に偶然出会った旅行者と恋に落ちる。子供はできぬが、二人は仲睦まじく暮らすだろう」
娘の涙に濡れた顔が、安堵でほころんだ。
「よかった……」
娘の命の時間がちょうど尽きたので、死神はためらいなく大鎌を振るった。
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