第88話 藁(わら)

 父親が壺を買ってきた。五十センチほどもある大きなものだ。壺は居間のサイドテーブルの上に鎮座していた。


 この壺を毎日磨けばお母さんは帰って来る、と父は言い、軟らかい布で壺の側面を撫でて見せた。


 そんなことあるわけがない、と小学校四年生の私にもわかった。六年生の姉も同意見だった。


 壺の値段は四十万だと父は言った。


 そんなものにお願いするよりは、毎日神社にでも行って神様にお願いする方がはるかにましだ、と私と姉は主張した。


 しばらくして、壺は我が家の居間から姿を消した。私と姉は胸を撫で下ろした。


 あたかも、母親が若い男と駆け落ちしていなくなっただけでは不十分だとでもいうように、父親が発狂したのである。私達家族は一体どうなってしまうのか、と夜中ベッドの中でこっそり涙を流したものだ。


 あの壺をどこの誰から父親が購入してきたのか、私は知らない。はたして相手が返品に応じ、お金を取り戻すことができたのかどうかも。案外、あれは物置の奥にでもひっそり眠っているのかもしれない、と密かに思っていたが、とりあえず何十万円かの損失のみで父親が正気を取り戻したのであれば、それは不幸中の幸いだと思っていた。狂った父親によって怪しげな宗教団体に入信させられるとか、財産全てを毟り取られるとか、それ以上悪い展開はいくらでも可能だったのだから。


 精神的に参っている人間の弱さにつけこんで高額商品を売りつけようとするような輩が実際に居るということ。そんな醜い世界を、母親のせいで新たに見せられたことを私は腹立たしく思った。


 父はあの一件で怪しげな商売にはすっかり懲りた、と思っていた。それ以降数珠だの水晶だの買わされたことは、私の知る限りではなかった。


 しかし、七十二歳で食道癌で亡くなった父親の部屋を整理している時に、ひと瓶数万円もする高額なサプリメントの箱が五つと、その領収書(六箱分)が出てきた。入院する前に耳鳴りが治らないと度々こぼしていたから、恐らくそれを治したいと願っての事だろう。父が長らく放置していた喉の違和感にも効果がある、とでも、家に出入りしていたというセールスレディに言われたのかもしれない。


 世の中は糞だ、と改めて思った。

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