第72話 優しい彼女が
「ふざけんな、このカス!」
とシズエは言った。俺は耳を疑った。そんな乱暴な言葉を使う女ではなかった。
「ちょ。たかがプリンだろ。なんだよその言い方。謝っただろ」
驚きが通り過ぎると、腹が立ってきた。コンビニに行ったついでに買ってきてほしいと頼まれたプリンをうっかり買い忘れた、ただそれだけのことなのに。
「期間限定パンプキンプリン。そこにしか売ってないやつ。先に言うと忘れると思って、わざわざお店に着いた頃合いを見計らって電話したのに。『ああ、あったあった』って、棚にそれがあるのも確認してたよね。なんで忘れるの」
それは確かにその通りだった。コンビニに行ってくるとアパートを出て、雑誌を立ち読みしていたら電話がかかってきた。期間限定商品なんて面倒くさいことを言われて、仕方なくスイーツ・コーナーを探し、見つけた。
「ああ、あったあった。これな」
「よかった。忘れずに買ってきて」
とシズエは電話を切った。俺は電話をポケットに突っ込み、目当てのスイーツを手に取ろうとした時、また着信があった。友達のケンジからのメッセージだった。特に急ぎの要件ではなかったが、何度かメッセージをやり取りしている間に、スイーツのことはすっかり忘れてしまった。言わば、悪いのはケンジで、俺じゃない。
しかし事情を全て説明した後にシズエが発したのが「ふざけんな、このカス!」だった。以後、何を言っても取り付く島もない。
「ああもう、めんどくせえ。そんなに食べたきゃ自分で買いに行けよ」
俺はシズエに背を向けて寝転がると、コンビニで買ってきた漫画を読み始めた。
「もう無理」
とシズエが静かに呟いて、寝室のドアが開く音がした。その時は、まさか一週間後、俺の留守中に彼女がきれいに荷物をまとめてアパートを出て行くなんて、思いもしなかった。
⚘
「お前のせいだからな」
と何十回目かの愚痴を俺は吐き出した。ケンジは笑いながら俺のグラスに酒を注ぐ。
「お前がプリンを忘れるからだろ」
「たかがプリンだぜ。七年も一緒に暮らしてたのに、たかがプリンで家を飛び出してそれで終わりって。ありえねえ」
悪酔いした俺はくだを巻く。他に怒りの矛先を向けるところがない。
「でもよお、お前には勿体なさ過ぎるいい子だったんだぜ。ようやく目が覚めたんだろ」
そう言われると、逃がした魚が一層惜しい気がしてきて、俺はまたグラスの酒をあおった。
「だいたい、今までは俺が何やらかしたって、にこにこしながら許してくれたんだぜ。プリンがそんなに大好きだなんて、知るかよ」
半年ほど交際した後に同棲を始めて七年、破局の危機は何度もあった。俺の浮気がばれたのが三回、うち一回はシズエの親友とだった。婚約指輪を買うはずの金をパチンコですったこともあった。それでも、毎回、悲しそうな顔をしながら許してくれたのだ。まさかプリンを買い忘れたぐらいで捨てられるとは。
「ほんと、女なんてわけわかんねえなあ。くそっ」
勢いよくテーブルに置いたグラスの中身が飛び散った。
「ちょっと、危ないじゃない。怪我するからもうやめときなさい」
ケンジの奥さんのカヨさんが、布巾でテーブルの上や床に飛び散った酒を拭きながら言う。
「カヨさんだって、酷いと思うよね? 七年だよ、一緒に暮らしたの。それなのにプリン一個でさあ」
「私だったら、あんたの二回目の浮気の時に別れてた。あんたさあ、シズちゃんの誕生日も記念日もことごとく忘れて、あんたの誕生祝いにシズちゃんがご馳走作って待ってたの知りながら友達と飲みに行って朝帰りしてたよね。借金のカタにシズちゃんのネックレス売り飛ばしたこともあったよね。シズちゃんに立て替えてもらったお金は全部返したの? どの面下げて『酷い』とか言えるわけ?」
ケンジ夫婦とはシズエも一緒に食事に行ったり旅行したりする仲だった。俺達の中で一番年上のカヨさんは、何かにつけてシズエの肩を持つ人だったが、こんな時まで女同士の結束を崩さない態度に腹が立った。
「謝りましたよ、都度。毎回土下座して。それで許してくれてたんですよ。なんでプリンごときで捨てられなきゃならないんですか。俺だってそろそろ身を固めようかなって思ってたのに」
「だったら、シズちゃん、危機一髪で屑男から逃れられたんだね。よかったじゃない」
「おい、弱ってる奴相手に、それはないだろう」
とケンジが仲裁に入るが、俺の怒りは収まらない。
「プリンっすよ。別れた原因。そんなの納得いくわけないでしょう」
「確かになあ、あの優しいシズちゃんが、プリンが許せないってちょっとな」
「だから、あんた達は馬鹿だって言うの」
カヨさんは怖い顔で俺達を睨みつけた。
「浮気されて、散々蔑ろにされて、仲直りしたっていっても、怒りが消えてなくなるわけじゃないの。カズオの場合、次々問題を起こすから、ああいう大人しい子は、静かに怒りを溜めこんでたんだよ。それがどんどん蓄積されていって、もう溢れる寸前、ってところでカズオがプリンを買い忘れたの。原因は、何でもよかったんだよ。プリンじゃなくても」
「そんなこと、教えてくれなきゃわからないでしょう!」
「浮気二回でやめておけば、誕生日祝いのご馳走が無駄になった次の年にはちゃんとしてれば、こんなことになってないんだよ、屑」
カヨさんは、「後は二人で勝手にやって」と寝室に引っ込んでしまった。
⚘ ⚘
シズエの居なくなった部屋は、彼女の持ち物も一緒に消えたこともあり、ひどくがらんとして見えた。
最初の一ヶ月ぐらいは、シズエから詫びの電話がかかってくるのではないかと四六時中電話を気にしながら過ごしたが、無駄だった。
一度だけメッセージを送ってみたが、既読にすらならなかった。
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