第57話 雪女の後悔
「誰にも言ってはならないと、あれほど、あれほど」
女の怒りが激しくなるのに反比例して、室内の温度はどんどん低くなるようだった。
「あれほどお願いしたではありませんか」
黄色く血走った眼はギラギラと輝き、口は耳まで裂けてギザギザの牙を覗かせていた。
「あれほど」
と女はまた繰り返した。
「許してくれ、俺が悪かった」
男は土下座して額を床にこすりつけた。
「許しません。言ったではありませんか、あれほど。言いましたよね、私」
あの日のことを、男は鮮明に思い出した。山小屋で吹雪をやり過ごそうとしていた男達のうち、生き残ったのは彼一人だった。
「このことは誰にも言ってはならぬ。言えば、お前の命はない」
美しいが、生きている者のそれとは思えない青白い顔をした女が、男にそう釘を刺したのだった。しかし――
「だって、お前、もうほとぼりがさめたかなって、気が緩んだんだ。本当にもう二度とこんなことはしないから、今回だけは許してくれ、頼む」
男は恐怖で顔を上げることができず、床に這いつくばったまま懇願する。冷たい朝を迎えて、恐怖に歪んだ凄まじい顔で死んでいた山小屋の男達の無残な姿がきつく閉じた瞼の裏に浮かんだ。
「許さぬと言ったら、許さぬ。もうこれで、五回目ですよ!」
女の言う通りだった。最初は、あの山小屋の恐怖の一夜から三年が経過した頃。彼は、ちょっといい女と知り合い深い仲になった。二人で冬の温泉旅行に出かけた時、ついうっかり、女を怖がらせてやろうと、床の中で口を滑らせてしまった。すると、うっとりと彼の腕に抱かれていた女の顔が、鬼の形相に一変した。
「誰にも言ってはならぬと、あれほどお願いしたではありませんか」
あれはお願いなどではなく脅迫だったと内心思いながら、男は泣いて謝った。男というのは、つい一回ぐらいなら大丈夫と思ってしまうものなのだ。己の浅はかさが身に染みてわかった。もう一度だけチャンスをくれるなら、二度とこんなことはしないと約束する云々。男が驚いたことに、女は
「それでは、もう一度だけですよ」
と許してくれたのだった。それから彼は本当に反省をし、絶対に、二度と再び同じ過ちは繰り返さないと誓った……のであったが。
「今回で五回目、五回目ですよ。あなたという人は。もう――無理です」
部屋の温度が一段と下がり、凍りかけた体が軋んで痛かった。しかし男は諦めない。不屈の精神で(なにしろ命がかかっているので)女に対し謝り倒した。もはや恥も外聞も人間の誇りもすべて捨てて。その結果
「もう、本当にこれが最後の最後ですからね」
と女はぷりぷり怒りながら去っていった。一人残された男は白い息を吐き震えながら、もう今後どれほどの美人に言い寄られようともいい気になったりしないと心に誓ったが、そんな約束を守れっこないことは彼自身が一番よくわかっていた。
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