第107話 やさしいひと
わたしは幼稚園が嫌いだった。
行きたくないと駄々をこねることはなかったが、母親に手を引かれて登園する間、しくしくと泣いていた。毎朝そうだった。
「ねえ、たっくん。今日はプールの日でしょ。プール大好きでしょ?」道すがら母がどうにかわたしを元気づけようと試みるが、わたしはただ悲し気な顔をして、めそめそするだけ。
そして泣きながら幼稚園の先生に迎えられ、母が帰ってしまってもしばらく泣き続けるのだった。なにがそんなに嫌だったのかは、今となっては思い出せない。
その日もわたしは、母に手を引かれて、泣いていた。いつも同じ道を通るから、幼稚園に近づくと、わたしの気持ちはいっそう重くなった。
幼稚園の隣の敷地は、高いコンクリート塀に囲まれていた。わたしはそのコンクリート塀に差し掛かると、母の手を少し引っぱって無駄な抵抗をするのが常だった。
そんなことをしても、無駄だというのに。
わたしは、もうじき幼稚園に到着してしまう悲しみに、嗚咽を漏らしながら歩いていた。ふと見上げると、コンクリート塀の上から女性の白い顔がわたしを見下ろしていた。塀の向こう側にいるため、こちら側から見えるのは頭の部分だけ。
わたしは驚いて足を止めた。
「たっくん。止まらないで。幼稚園はすぐそこだよ」
つないだ手を母に引っ張られ、わたしは渋々歩き出したが、首をひねって、その女の人のことを見ていた。彼女も、小首をかしげてわたしを見ていた。
奇妙なことに、この日よりわたしは、幼稚園の隣のコンクリート塀に差し掛かると、ぴたりと泣き止むようになった。塀の向こう側にはいつも、同じ女性が立っていた。年のころは二十代後半から三十代ぐらいだろうか。柔和な顔立ちで、優しそうな瞳をしていた。泣き顔のわたしを見つめる顔はわずかな微笑をたたえていた。
ようするに、はかなげな様子の女性は、美人だった。
ほどなくしてわたしは、幼稚園に行く道すがら、泣くことをやめた。塀の向こうから顔だけ覗かせている女性に、機嫌よく手を振ると、あちらも笑顔で返してくれるよ。それが毎朝楽しみだった。
そして、この密かな逢瀬は、わたしが卒園したことによってあっけなく終わった。心配性のわたしには、幼稚園が終わっても、すぐに小学校という難敵が出現し、他のことにかまっている暇はなかったのだ。さすがにもう、小学校へ泣きながら通うわけにはいかなかった。わたしは小学校も大嫌いだった。
そんなことを思い出したのは、大学を卒業したあとに、Uターン転職で地元に戻って来てからだった。三十を過ぎると、ひとは楽しくなかった過去でも懐かしく思い出すようになるらしい。
母親と会話していて、幼稚園に行くときに毎日泣いていたという話を笑いながらされて、およそ三十年ぶりに、言ってみようかという気になった。この少子化の時代に、幼稚園自体はすでになくなっていたが、通園路を歩いてみたかった。
自転車に幼稚園児を載せて走ることを頑なに拒んだ母に連れられて毎日歩いた道のりはずいぶん長く感じられたのだが、大人の足ではあっという間だった。そして、幼稚園の隣の敷地を囲っていた見上げるほど高かったコンクリート塀も、今では肩より少し下ぐらいの低さだ。
おかげで、初めて塀のなかを見ることができた。当時のわたしは、塀の中になにがあるのかなんて、考えたこともなかったのだが。
そこは、町中の一画に設けられた、墓地だった。墓石の間に視線を這わせてみたが、わたしを毎朝見送ってくれた優しい面差しの女性の姿は、なかった。
それでもしばし佇んでいると、塀の端から黒い猫がとことこ歩いて来るのが見えた。
そういえば前に一度、幼いわたしが伸ばした手に応えるかのように、塀の向こう側の女性がこちらに向かって手を伸ばしてくれたことがあった。それでも、わたしたちの手が触れ合うことはなかったのだが、わたしはあの女の人との距離が縮まった気がして、嬉しかったものだ。
だが、母に手を引かれ(彼女は一度も塀の向こうの女性に注意を払ったことがない)遠ざかりながら、それでも懸命に首を捻り手を指し伸ばしていたわたしの視界を、黒い猫が横切った。
その猫は、塀の上を歩いて、腕を伸ばしていた女の人の体を突き抜けて、歩き去ったように見えた。もちろん、目の錯覚だろうと、忘れてしまっていた。あのときあのひとは、少し悲し気な顔をしたように見えた。
「もちろん、お前があの時の猫のはずはないよな」
幅十センチほどの塀の上を歩いて、臆することなく近づいてきた黒猫に、わたしはそう話しかけた。頭を撫でてやろうと手を伸ばしたが、猫はたくみに体を捻って、塀の上を歩き去った。
一瞬のことであったから断定はできないが、猫は私の指先を、まるで実態がないかのようにすり抜けていったかのようにも見えた。
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