第15話 トライポフォビア
高校生の頃、夕方から近所の外科医院でバイトをしていた。看護師がピンク色の制服の上に着る割烹着のような白いうわっぱりを私服の上に着て、患者の湿布を張り替えるとか、医師が処置をした患部に包帯を巻くとか、電気治療の患者に器具をあてるとか、要は雑用係だった。勿論注射などはやらせてもらえない。血管に針を入れるのは素人には無理だとしても、筋肉注射なら簡単そうなので一度ぐらいやらせてもらえないかと内心思っていたが、それを口に出さない程度の分別はあった。
それは近所の小さな外科病院で、家に出入りしていた米屋のおばさんの口利きで採用されたバイトだった。後から知ったことだが、「暇そうにしている高校生がいる」という理由で推薦されたらしい。私の他にも、保母を目指す短大生や、大学生などが、同じように白いうわっぱりを私服の上に着て、看護師もどきの仕事をしていた。
時代が時代なので、「先週、東南アジアに出張したのだが、エイズの検査を受けたい」などと青ざめた顔で泣きついてくるバブルの名残りのような患者も稀にあったが、客は大抵はご近所の善良な人々、少なくとも当時週刊誌で話題になっていた海外買春ツアーなどとは無縁のまま一生を終える市井の人々であった。
病院の建物自体は、かなり立派で頑健、五階まであった。昔は入院患者を受け入れていたそうだが、私が雇われた当時は、一階で外来患者のみ扱っていた。華々しき頃のベッドや機器が埃を被って暗闇に眠っているのだと想像すると楽しく、いつか上階を見せてもらいたいと思っていたが、これも叶うことはなかった。過去の栄光はどうであれ、外科医院と看板を掲げていても、風邪や腹痛の患者も気軽にやって来る町の便利病院になっていた。
高校を卒業してフリーターになった私は、「暇ならばうちに就職すればいい」という医院長の提案でフルタイムの病院雑用係になった。朝から清掃のために出勤すると、既に待合室には患者さんが数名、世間話に花を咲かせている。高齢者には病院がアトラクション代わりなので、ビタミン注射や電気療法といったものにほぼ毎日やって来る常連もいて、湿布を貼り替えるついでに家族に見放された老人の足の爪を切るのも仕事のうちだった。
腐っても外科なのでたまに派手に流血した患者が来ることがあり、その時はにわかに活気づき、こちらのテンションも上がるのだが、重症患者はこのような個人病院には運ばれて来ないので、素人の私が卒倒するような場面には幸い遭遇しないで済んだ。
その日やって来た患者は、初診ではないようだったが、私とは面識がなかった。
「やあ、久しぶり」
「ご無沙汰しております」
そんな会話を院長と交わし、丸椅子に腰かけたのは、六十代と思われる小柄な男性。物腰の柔らかい、感じのいい人だ。
「今日はどうされました」
と院長が尋ねたが、そんなことは訊くまでもないだろう、と脇に控えている私は内心思っていた。
半袖を着る季節であったが、シャツから露出している顔、首、両腕、指の先までがいぼに覆われていた。大きいものは二センチほども表面から盛り上がっていたので、こぶと呼ぶべきかもしれない。それが、隙間なくその男性の皮膚の表面を埋めていた。外観では膿んでいる様子もなくきれいな肌色のため、パッと見ではわからないのだが、なんだかモコモコしている印象に違和感を覚えよくよく見ると――。
これは一体何という奇病だろうか。こんなにひどくなるまでどうして放置しておいたのか、痛みはないのかもしれないが、ひとから好奇の目で見られることは必至で、日常生活だってこれでは不自由するだろう、などと考えていると、患者は
「二三日前から、腰が痛くて」と言った。
院長は頷くと
「じゃ、ちょっと見せてください」
男性がシャツをたくし上げて背中を露出させると、そこもびっしりといぼにしては大きくこぶにしては小さいでっぱりに覆われていた。恐らく布で隠れている部分まで、全身がこの状態なのだろう。私は喉元にせりあがってきたものを平静を装って飲み下したが、無意識のうちに、できるだけ息を吸わないようにしていた。
院長は別にゴム手袋をはめるでもなく、
「ここ、痛いですか」
などと患部を押さえつついつも通りの診察をしたうえで、
「電気をあてて、後で湿布しましょう」
という診断を下した。
私は隣の治療室に患者を案内し、電気で幹部を温める器具を、椅子に腰かけた患者の腰から十センチほど離れた位置に固定し、タイマーをセットした。
それが済むと、患者は再び診察室に招き入れられ、私の同僚だが格上の、看護学校に通う見習い看護師が湿布を貼り、少し迷って、湿布がはがれて来ないように、テープで補強した。彼女も素手であった。
患者は、医師から
「様子を見て、しばらく電気に通ってください」
と言われ、頷いて去っていった。
もし伝染性だったらどうしよう、としばらくは不安で欝々と過ごした。
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