第10話 熊に抱かれて

「熊に抱かれて、生きたまま食べられたい」


 彼女は私が日本語教師をしていた時の生徒だった。彼女が日本語に興味を持った理由は忘れてしまったが、どのような死に方が理想か、という話題になった時に(なぜそのような話題になったのかも今では謎だが)、そう答えたことはよく覚えている。


 夜間、週一、三ヶ月間、昼間は子供達が通う学校の教室を借りた大人のための生涯学習コースの日本語クラス(Level 2)は総勢六名のこぢんまりとした集まりだったが、当然のことながら、騒然となった。


 生きながら熊に食われたい彼女は、三十歳になるかならないかの、若い獣医師だった。


 大手自動車メーカー勤務者やプログラマー、航空会社社員、引退したギリシャ語教師、大企業に勤める夫を持つ専業主婦といったバラエティーに富んだ面々の中で、彼女は最も動物について詳しいはずで、野生の猛獣に愚かしい夢を抱くことは、職業柄不可能と思われた。その彼女が、まるで夢を見るようなうっとりとした目で言ったのだ。


「熊に抱かれて、生きたまま食べられたい」


 間借りしている家の猫のトイレの臭いすら耐え難いと感じる私には到底理解できないことだったし、ホームレスより野良犬猫を大事にする国民性だと私が密かに評している残りのイギリス人生徒達(元ギリシャ語教師はギリシャ出身で英国滞在歴三十年)の中にも、彼女に共感を示す者はいなかった。


 ロンドンで日本語を教えていたのはもう二十年近くも前のことなのだが、「くま」と聞くと今でも思い出す。そして、その時に想像した、熊の腕に抱かれた時の獣臭や鋭い爪が皮膚を破ってくい込む痛み、牙が迫って来る様、噛み千切られた血まみれの肉片が骨ごとバリバリと咀嚼される音などのことを。


 残念ながら帰国後は当時の生徒達と疎遠になってしまったが、彼女は今でも生きたまま熊に食べられて死にたいと思っているのだろうか。


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