第91話 親鳥に引率された雛たちに車の前を横切られるぐらいの田舎
田舎の程度を表す表現は色々ある。例えば:
「イオンしかない田舎」
「バスが一日一本しかない田舎」
「コンビニが一軒もない田舎」
「車がないとどこにも行けない田舎」
等々、枚挙にいとまがない。「イオンがあるなら真の田舎とはいえない」などという内輪の争いは都会暮らしの人間を鼻白ませるだけだが、「都会」の定義もまた様々である。しかし、それはここでの議論の対象ではない。
のっぴきならない事情で私が引っ越した先は、散歩でちょっと足を延ばせば見渡す限り田んぼが広がる空の低い風景に遭遇できるような田舎だった。米の生産が盛んということは、水がきれいで豊富、水道水さえ以前の土地よりおいしく感じられ、山も海もあるため両方の幸を満喫できるという、田舎というよりはパラダイスと呼ぶのがしっくりくるようなところであった。米もうまいことなどは、もはや言うまでもない。
勿論、いいことばかりではない。例えば雪。毎年軽く一メートルぐらいは積もるので泣き言を口にすると「こんなもの、あのヨンパチの豪雪に比べたら。皆二階の窓から出入りしたもんさ」と昭和四十八年の記録的大雪を持ち出され、軽くあしらわれる。
さらに、交通の便が悪いので車がないと詰む。通勤が車前提になっている職場もままある。
私も、三十を過ぎて初めて運転免許を取ることにし、教習所であまり年齢の変わらない教官から思いつめたような顔で「失礼ですが、その年齢まで免許を取らなかった理由は?」などと聞かれ、完全にやばい人扱いを受けた。そして雪の日でもなんでも、車で通勤する。
「雪がひどいので休みます」
などと言おうものなら、また「こんなもの、あのヨンパチの豪雪に比べたら」と振出しに戻るが、一回休ませてはもらえない。槍でも降らない限りは出勤だ。しかし、雪道を運転する恐怖はここでの話題ではない。
私は車の運転が好きではない。「うっかり」で人を殺してしまえる殺戮マシン、今でもそう思っている。だが、田舎では車がなければ、通勤できない。車間距離をとること、スピードを出さないこと、急ブレーキを踏まないこと、さらにスマホカーナビカーステレオ、注意力を逸らすものを運転中に操作しないことを自分に課しているが、これでもまだ万全とは言えない。集団登校の小学生に車が突っ込んだなどというニュースを耳にするたびに恐ろしくなる。人殺しにはなりたくない。他人の命を奪ったり障害を負わせた償いなど、できるわけがない。
あいつは、そこに付け込んできた。
その日は休日で、天気がよく、視界は良好だった。
それは自宅からほど近い、車の往来が盛んな片側一車線の県道を車で移動中の事。はるか前方、右手対向車側の路肩に、奇妙に細長い鳥の姿を認め、私はおや、と目をこらした。顔も首も胴体も足も、何もかもが細長く、なんとなく薄汚れた感じのする茶色っぽい鳥の周辺を、ふわふわした毛糸玉――それも茶色――のようなものが、ちらちら動きながら飛び跳ねていた。
あれは一体
車が前進するにつれ、周りの毛糸玉の正体が落ち着きなく動き回る雛であることがわかった。浮かれた子供たちに比べ、あたかも、今しがた自らの羽で機織りを済ませてきたばかりであるかの如くやつれはてた親鳥は、仁王立ちのまま微動だにしない。
びゅんびゅん飛ばしていく車が多いなかで、スピードを抑え気味のため、すぐ前の車にどんどん置いて行かれる私の車を見て、親鳥は「今だ!」と思ったのに違いない。
対向車側の車が途切れたところで、意を決した親鳥が、雛を引率して車道を横断し始めた。車間距離が十二分に開いていたとはいえ、こちらは車である。ほんの数秒呆気に取られている間に、対向車線を渡り切りこちらの車線にさしかかった鳥たちがすぐ間近に迫っていた。我に返って後続車のことを考える余裕など一切なく急ブレーキを踏んだが、幸い追突されることもなく、鳥たちの手前で急停止することができた。対向車線の車も、ぽかんとした顔で停車していた。
雛たちのけたたましいさえずりが、窓を閉めていてもはっきり聞こえた。雛特有のふわふわの羽毛。これではまだ飛べないだろうし、歩くのも恐ろしく遅い。いや落ち着きなく高速で動き回っているせいでちっとも先に進まないのだ。私は、ニュースで見たことがあるカルガモの親子はもう少し早く行進していた気がすると思い出しながら、茶色い親子鳥が、おそろしくゆっくり時間をかけて道路を横断しきるまで口を開けたまま見送った。歩道にいた二人組の主婦が、すかさず携帯電話を取り出して写真を撮るのが横目に映っていた。
どこから来て、どこへ行くのか。
子の付近には田んぼや池などないはずだった。道路を横断した彼らが向かったのは、石段が鬱蒼とした木々の中に消えていく不気味な空間だ。神社のようなその佇まいが戦没者の慰霊碑を祀ってある場所だと知るのは、それから何年も経過してからだ。
どうも安全運転過ぎるのがよくないのではないか。
私の車が他の車に比べゆっくり走っているから、動物たちはつい前を横切りたい衝動に駆られるのではないか。田舎での滞在が長びくうちに、猫、狸、ハクビシン、ニホンザル、鹿と様々な生き物に走行中の車の前を横切られた。それでも、ただの一匹も轢いたことはないので褒めてほしい。
それでも、田舎の道路に轢死した動物が横たわっていることは決して珍しくない。
雛を引率する親鳥に車の前を横切られた数年後に、私は郵便局からの帰り道、細長く茶色い鳥に再度車の前を横切られて急ブレーキを踏み、
「またか!」
と叫ぶことになる。この鳥は雛を連れていなかったが、色は薄ぼけた茶、全体的に細長く、くたびれきったみすぼらしい外見が、前回の鳥を即座に思い起こさせた。前回の遭遇場所からは少し離れているし、同じ鳥だとは思えなかったが、二度も鳥に横切られたこと、一度目は幼い雛を連れていたというやむを得ない事情があったとはいえ、今回は一羽きりで、鳥の癖に呑気にひょこひょこ歩いているところが癪に障った。
「飛べばいいじゃん!」
ひょっとしたら怪我でもしていたのだろうか。だとしたら可哀相だが。
勿論、轢き殺したりしなかった。クラクションを鳴らしてせかすことさえしないで、私は大人しく鳥が道路を渡りきるのを待っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます