第50話 毎年数センチの雪が積もっただけでパニックとなり交通が麻痺する地域から豪雪地帯へ移り住んだ場合の覚書
雪の日に喧嘩をしてはいけない。
よしんば売り言葉に買い言葉だったとしても
「大嫌い」
などと捨て台詞を吐いて家を飛び出したりしてはいけない。
とっさにダウンコートをひっ掴んだとはいえ、それはよりによってフードのついていないショート丈のものだったし、足にひっかけたのはスニーカー。
こんな日にスニーカーで外をほっつき歩いたりしてはいけない。
ジッパーを一番上まで上げてボタンを全て留めたとしても、まるで冷凍庫の中だ。骨の髄まで一気に冷え込んでしまう。ポケットの中に少し湿った手袋を発見したのは、ほんのお慰み。
ばあん!
とドアを閉めた時の勢いは、十歩、二十歩と進むうちにすっかり削ぎ落とされてしまう。靴の下で雪がみしみしと鳴る。こんな日はゴム長靴でなければならないのだ。スニーカーの靴底に踏み固められた雪の塊がくっつくので、かなりの頻度で足踏みをして塊を粉砕し振り落とさなければならない。
世界は白く濁っている。
輪郭のぼやけた車がゆっくりと走っているが、歩いている者の姿は皆無。こんな日は極力家に籠っているもので、どうしても外出しなければならなかったとして、徒歩はありえない。車の所有率が都会に比べて異常にに高いのは、そういうことだ。
無音で降り積もる雪が、往来する人々に踏み固められてできた「歩道」を早送りの速度で埋めて用途不明の浅い溝にしてしまう。こんな日にスニーカーを選んではいけない。脛まで雪に埋もれて靴下まで濡れた爪先が痺れ痛み始める。
無防備に晒された髪の毛が、まつ毛が、たちまちまっ白になってぐっしょりと濡れる。涙が熱く感じられるのもほんの一瞬のこと。こんな日にフードなしのジャケットを選んではいけない。しかもショート丈とは。
どこかの店に入ろう。そう思った途端、財布を持っていないことに気付く。携帯電話すら置いてきたらしい。
OK、カフェで温かい飲み物という線は消えた。ならばせめて屋根があって暖房がきいているところへ行こう。駅の待合室か、書店はどうだろう。
こんな日には、自動車は漏れなくスタッドレスタイヤに履き替えているのが当たり前の雪国でも電車が止まるかもしれない。ならば待合室は迎えの車を待つ人々で混雑しているかも。駅自体既に閉鎖されているかも。
書店にしよう、と考える。風が強く目に雪が飛び込んでくるため、薄目で歩く。顔が痛い。書店にたどり着いた時には濡れ鼠だろうが、仕方がない。できるだけ本棚から離れて立っていよう。
別に書店でなくともよい。無料で暖をとれる場所があればそこに入ろうと目を凝らして見るが、店員ごと息絶えたかのように、どの店も、家々さえも灯が消えている。
果たしてたどり着けるだろうかなどと弱気になってはいけない。通常は歩いて十五分ほどの距離である。
むき出しの頬が痛み肺が軋む。空気が冷たすぎるのだ。止まるな、足を動かせと念じるが、爪先はもう感覚を失っているし、どれだけ歩いても体が温まる気配はない。それどころか、確実に体温は奪われていく。
黄色い大きな塊が傍らをゆっくりと通り過ぎていく。除雪車は中央の雪を脇にどけるだけで、根本的な問題解決にはならない。
つまらない意地をはるのはやめたらどうだという小さな声が聞こえたのか聞こえないのか、小さい頃の、あるいは今より少し前の、まだ幸せだった頃の思い出が、オレンジ色の暖かな光の中にぼんやり浮かび始める。
これがよくない兆候であることは明らかだが、人通りの途絶えた町を、フードのないショート丈の薄っぺらなダウンコートで膝まで雪に埋もれてジーンズとスニーカーを濡らしながら息も絶え絶えに書店を目指しているのだ。ある意味仕方のないことではないかという諦めも無きにしも非ずで、オレンジ色の光の中で幸せそうに笑っている自分の姿をうっとりと見つめている。
まだ夜ではないはずだが、ホワイトアウトした風景からは、さっきまでゆっくり動いていたはずの車の影さえ消えている。
もはや引き返すことさえできないことは明白なのだから考えないことだ。
体が重く感じられ、少しだけ足を休めるぐらいなら問題ないだろうと考え始める。なんなら目を閉じてみてもいい。ほんの少しの間なら。雪の降り積もったまつ毛はとても重たいのだから。
音もなく近づいてきた車のドアが開いて、聞き覚えのある声にどやしつけられた。
頭から湯気が出そうな勢いで悪態をついているのは果たして母親か恋人か、そんなことさえもはやどうでもいいことだ。
暖かい部屋、ファンヒーターの前で脱ぎ捨てたジーンズの裾が、まだ誰かの足が入っているかのように丸い形で凍りついている。
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