第49話 臆病な子
「いやよ、絶対に外になんか行かない」
とハナコは頑固に言い張る。
「だって、怖い病気が流行ってるんでしょ? あまりにも患者が多すぎて、病院のベッドが空いてないから、もしその病気にかかっても入院させてもらえないんでしょ? 私、いやだわ。お医者さんにも診てもらえず、苦しい思いをして死ぬなんて」
お父さんは溜息をついて
「大丈夫だよ、お母さんもお父さんもワクチンの接種を受けたんだ。その怖い病気にかからないようにするためにね」
と言ってハナコをなだめようとした。しかし彼女は
「嘘よ! 予防接種を受けてもその病気にかかることは防げないっていうじゃない。お父さんやお母さんが外でその病気になって、それが私にうつったらどうするの? お父さん、もう明日から会社に行くのはやめて。お母さんも、ずっと家にいてよ。ねえ、私のことが可愛くないの?」
「大丈夫だよ、お父さん、職場ではいつもマスクしてるから」
「マスクで完全に予防できると思う? 変異株は感染能力が高いんでしょ? お父さんがいくら気を付けていたって、ご飯を食べる時、何か飲む時、マスクを外さないといけないじゃないの。それじゃ全然安心できないわ」
ハナコはしくしく泣き始めた。それを聞いたお母さんも泣きそうな顔をして
「先生、先生からもなんとか言ってやってください」
と医者に縋った。先生は困り果て
「参ったなあ。私は産婦人科医なので、お母さんとお子さんの体の健康管理はしますが、正直、こういう親子間の問題については専門外でして」
とゴム手袋を外しながら言った。
「ハナコちゃんは現在六百九十七週目に入りました。つまり、妊娠四十週で生まれていたとしたら、現在十二歳。ワクチン接種は十二歳以上が対象だから、ご両親が同意されるなら、打つことができますよ」
お父さんはほっとした顔をして、お母さんのお腹に呼びかける。
「聞いたかい、ハナコ。ワクチンを接種すれば、万一感染しても重症化は避けられるっていう話だよ。ワクチンを打てば、お前も安心できるだろう」
「いやよ!」
とハナコは診察台に横たわる母おさんのお腹の中から叫ぶ。
「ワクチンの安全性はどうなのよ。病気の感染拡大がすさまじくて、治験もそこそこに大慌てで承認されたっていうじゃない。そんなものを打って、将来私に何か起きたらどうしてくれれるの?」
両親は顔を見合わせて溜息をつく。
「先生」
母親がベソをかきながら言う。
「この子に言ってやってください」
そんなことを言われても、と産婦人科医は口ごもる。いかなる薬も百パーセント誰にでも安全ということはなく、ワクチンの場合は、例えインフルエンザ用でも有害事象は報告されている。僅かでも重篤な有害事象が発生し得る可能性と、罹患した場合に重症化を防げる効果とを比較検討して、接種するしないは本人自身、子供の場合であれば親が判断するべきことなのだ。
ハナコのように、ありとあらゆることを恐れ、あれこれ理由をつけて母親の胎内に十年以上とどまっているような子であれば、尚更両親が強い意志を持って決断をする必要があると彼は思うが、先程も述べたように、親子の間の問題について考えることは、彼の専門ではない。彼の仕事は、妊婦を無事に出産させ、母子ともに無事退院させられるよう努めることだ。
「知り合いのセラピストに紹介しましょう。今後のことは、彼にご相談を」
と医者は可能な限り小声で言ったにもかかわらず、耳ざとく聞きつけたハナコが金切り声をあげる。
「いやよ、そんな見も知らない人に会うの。子供にいたずらするような変態だったらどうするの? 私は先生がいいの。だってずっと先生に診てもらってるんだもの。他のお医者さんなんていやよ、絶対」
両親と医者は顔を見合わせて溜息をついた。
「それでは、また……三ヶ月後にでも診せていただけますか。半年後でもいいですが」
医者の言葉にうなだれ、ハナコの両親は重い足取りで診察室を出て行った。
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