第17話 自分を食べた男

 変人で親戚中の鼻つまみになっている叔父から封書が届いた時は、嫌な予感しかなかった。放置しておくのもかえって気になるので開封すると、「きてくれ」と大きさが不揃いの、まるで読み書きを習い始めたばかりの子供のような拙い文字で綴ってあった。


 この叔父は父の弟で、僕が物心ついた頃には、まだ三十代の若さで既に人里離れた山奥に隠居していた。人付き合いが苦手だという割に、エキセントリックな男性ばかり好きになっていつも不幸な結末を迎えるタイプの美人だが変わり者の奥さんがいた。この奥さんが資産家の娘だったため、叔父は定職に就く必要がなかった。二人の間に子供はなく、十年前に奥さんが癌で亡くなってからは、ずっと一人暮らしだったはずだ。


 冠婚葬祭で親戚一同が集合した際に、ごく稀に遭遇することがある程度だったこの叔父に、僕は何故だか気にいられていた。正直、彼の基準で「同類」と見做されたようで、ありがた迷惑だったのだが、子供の頃には何度か夏休みに泊りがけで彼の家に遊びに行ったこともあった。当時は美人の奥さんが自家栽培の野菜やハーブ、絞めたばかりの鶏などでご馳走を作ってもてなしてくれたものだったが、その奥さんが亡くなってからは、叔父の偏狂ぶりに拍車がかかり、殆ど外界との交流を経ってしまっていた。


 僕自身、叔父と最後に会ったのは自分の結婚式の時だった。それからはや十五年だ。僕は離婚し、息子と会えるのは月に一度だ。そのような状況で今回の手紙である。変人故に、叔父の家には固定電話がなく携帯電話も持っていないから、連絡のとりようがない。


 きてくれ


 何度見ても、便箋一枚に記されているのは、それだけ。放置しておくわけにもいくまい。自分の父親に電話で相談してみたところ


「お前、すまないが様子を見てきてくれないか。あいつももう七十過ぎだ。なにかあったのかもしれん。お前、昔叔父さんに可愛がってもらったろう」


 僕は溜息をついて、次の休みを犠牲にして叔父の住む辺境の地へ旅立った。



 人里離れた一軒家である。あまり高くない山の中腹にあり、文字通り「人里離れ」ているので最も近い郵便局やスーパーへ行くのに車で山を下って四十分ほどかかる。子供の頃父に連れられて何度か遊びに来た時は楽しかったことを、カーブのきつい山道を運転しながら思い出した。カブトムシやセミ、昆虫採集に明け暮れて、川で岩魚を釣り、まるで天国のようだったが、夜は寂しすぎるのが欠点だった。自宅では自室で一人寝していた僕も、叔父の家では叔父と叔母に挟まれて川の字になって寝たものだ。今思えば、子供時代の幸福な思い出だ。


 しかし何十年振りかで訪れた叔父の家は、見る影もなく荒廃し放題だった。かつて田畑だった地面には雑草が伸び放題、手入れしていない庭の木々も鬱蒼と生い茂り、小さな建物は、山の緑に殆ど飲み込まれてしまっていた。


「叔父さん、ヤスオです。手紙をもらって、来ました」


 ひび割れたコンクリートからも雑草がぼうぼう生えている玄関先から呼びかけてみたが、返事がない。草をかき分けながら家の周りを一周してみたが、雨戸が締め切られ、人の気配がない。これはいよいよあれか、と覚悟を決めたが、勿論いざ変わり果てた叔父と対面したら、そんな覚悟などは吹っ飛んでしまうだろうが。


 仕方なく、玄関の引き戸に手をかけてみると、カラカラと音をたてて開いた。恐る恐る中の様子を窺うと、まだ昼間だが、窓が閉め切られているため奥の方は暗く沈んでいる。


「叔父さん、ヤスオです。いないんですか」


 声を大きくして呼んでみると、かすれた声か聞こえた。


「ここだ、二階にいる」


 僕は死体の発見者にならずに済んだことにほっと胸を撫で下ろした。しかし、声の様子からして叔父は非常に弱っているようだ。これは入院させるためにひと悶着あるかもしれない、などと考えながら、僕は三和土で靴を脱いで、階段を上った。しばらく掃除をしていないようで、表面を埃が覆っていた。



 こんなことなら、むしろ腐乱死体を発見していた方がよっぽどマシだった、と僕は心の中で思った。


 二階は叔父の書斎だった。仕事もしないで、その時々興味を持った物・事の文献を集めて研究するという優雅な暮らしをしていた人であった。暗い部屋の入り口で、手探りで探り当てた電気のスイッチを押すと、意外や、意外、明かりが点いた。光に照らし出された書斎は、足の踏み場もないほど積み上げられた書籍に埋もれていた。どう見ても、大人である叔父が身を隠せそうなスペースはなかった。


「どこですか、叔父さん」と呼びかけると、また弱々しい声が聞こえた。

「ここだ、ヤスオ」

「えっ。どこですか」

「ここだ、ここ」


 小さい声だが、明らかに近くから聞こえるのに、姿が見えない。途方に暮れていると、


「ここだよ。俺の口が見えるだろう」と囁く声。「俺の口」とはなんだ、と更にもう一度雑然とした部屋の中を見回すと……居た、というより、あった。それは確かに、口だった。唇とその間から覗く歯と舌と……口であるとしか言いようのない物体が、叔父の書き物机の上に乗っかっていた。


 言葉を失った僕に、その口は言う。

「よく来てくれたな。お前に頼みたいことがあるんだ」



 つまり、こういうことだった。


 厭世癖のある叔父でも、妻である叔母の死は相当な痛手だった。叔父は孤独はむしろ好きだったが、彼女のいない世界には耐えられないと思った。自分を消して彼女の跡を追うことにしよう、そう思ったのだそうだ。それで叔父は、食事を一切やめた。体は順調に弱っていったが、それでもスピードが足りないともどかしく思った彼は、自分で自分の体を食べて処理することにした。


 これは、絶食により命を絶つことと対立する行為であったが、自分を食べても不思議と空腹は満たされず、かえって胸の内に大穴が空いたような虚無感を味わった。最初は足から始めて、脛、腿、と順調に彼は自分を食べながら消していくことに成功した。しかし、ついに最後のパーツである口を残すだけとなって、そこで、はたと気付いたのだそうだ。


「自分で自分の口は食べられないし、胃がなくなったせいで飢餓感も完全に消えた。思うに、人が死ぬためには、口以外の部分も残っていないといけないのではないかと思う。残念なことに、わたしにはもう自死するのに十分な『自分』が残っていないんだ。それで」


 真にすまないが最後の最後に手を貸してもらえないだろうか、と叔父は――いや、叔父の口は絞り出すようなか細い声で言った。


「いやしかし……それは自殺幇助ということになりませんか」

「最悪遺体損壊かな。わたしはもう、とっくに生きてはいない。生きてはいないが、死んでいるとも言い難い。ならば、遺体を傷つけたことにはならないさ」


 それはまあ、厳密にいえばそうかもしれないと僕も思ったが、そんなに簡単には割り切れなかった。


「それでも、僕があなたの口を処分したら、叔父さんはこの世から完全に消えてなくなる。それは結局、死ぬのと同じなのでは」

「お前、いつからそんな理屈っぽくなったんだ。お前ならシリアルキラーになってもおかしくないと思ったからこんなことを頼んでいるんだ」


「わかりましたよ」とついに根負けして僕は言った。「で、僕にどうしろっていうんです」別に僕にシリアルキラーになる素質があるからではない。叔父の境遇に同情したからだ。


「もっと山奥に連れて行って、放置してくれればいい。そうすれば、山の獣に食われて、完全にこの世から消えてなくなるはずだ」

「そんな壮絶な死に方をする必要があるんですか? 僕だってあまり残酷なことはしたくないけど、例えば……深い穴を掘って埋めるとか」


 窒息するのは苦しいから嫌だ、と叔父は言った。そもそも、肺がないのに窒息するだろうか。ここに居ても蜘蛛や鼠、時には野生化した野良猫なんかがやって来るが


「あさましいことに、口だけになったわたしは、どうも人間としての理性をなくしたらしい。猫ぐらいなら、食ってしまうんだよ。頭からバリバリと。鼠でも蜘蛛でも、ゴキブリでさえね。別にうまいとも思わないし、空腹を感じ飢えているわけでもないのに」


 だからもっと強い動物でなければならない、と叔父は言った。僕はそれ以上グロい話を聞かなくて済むように、叔父の最期の頼みを聞き入れることにした。叔父の口をハンカチにくるんで、階段を下りた。


 叔父に指示されるがまま山奥に分け入って、口だけになった彼を太い木の根元にハンカチと共に置いた時、彼はこう言った。


「恩に着るよ。お前ならやってくれると信じていた。財産は全てお前に譲るという遺言状がデスクの一番上の引き出しに入っている。わたしは妻のいない人生に絶望し、一人で山奥に分け入って果てることにした……と書いておいたから、口裏を合わせてくれよ」



 叔父から郵便で受け取った手紙と机の引き出しから発見した彼の遺言状を手に、僕は警察を訪れ叔父の失踪届を提出した。叔父の自宅周辺が捜索されたが、無論叔父の遺体は発見されなかった。あと七年経てば、失踪人の死亡が認められるだろう。


 その後あの山では、無残に食い荒らされた動物の死体が見つかるようになった……という噂はとんと聞かないので、希望通り叔父の口は山の獣に食べられて最期を迎えたのだろう。


 あるいは、狸や猿といった山に住む獣と戦っても叔父の口の方が強く、最早胃袋もなくなり限界が消滅した彼が、どんな獣でも骨すら残さず食べ尽くしてしまって今日まで生き永らえている、という可能性もあるのではないかと思うが、まあ仕方がない。

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