第77話 骨と肉

 病室の名札を確認してからケンジはドアをノックした。

 少し待っても返事はなかったが、約束の時間なので中に入ると、骨と皮ばかりに痩せさらばえた兄ケンイチの姿があった。ケンイチはベッドに横たわったまま、大儀そうにケンジに頷いて見せた。もはや起き上がる力はなさそうだった。


「よく来てくれたな」


 ベッドの横に置かれたパイプ椅子に腰かけたケンジに、兄はかすれ声でそう言った。

「すっかりご無沙汰しちまって。兄貴、あの時は」

 ケンイチが枕に載せた頭を微かに横に振ったので、弟は口をつぐんだ。

「もう、いいんだ、昔のことなんて。俺は、死にかけている。すっかり、水に、流そう」

「兄貴……」


 ケンイチは唇を舌で湿らすと、こう切り出した。


「色々あったが、俺たちは兄弟だ。俺には子供がないし、女房とは離婚した。俺の財産は大して残っちゃいないが、全部お前のものになる。実はな、入院前に買った宝くじが三億円の大当たりだったんだが、俺にはもう使い道がない。だから、仲直りの印に、それをお前にやろうと思う。入院中に盗まれたりしちゃならないと、ある場所に隠してあるんだが、その場所は」

 辛そうになんとかそこまで喋ったケンイチは、急に目を見開いて、大きく息をのみ込んだ。

「兄貴、どうしたんだ、兄貴」

 ケンジは兄の体に縋りついた。

「場所は……本、ある本の、なか」

「しっかりしてくれよ、兄貴、なあ」


 ケンイチの心拍が停止したことを告げる電子音がピーーーと病室に鳴り響いた。ケンジは兄の亡骸に縋って、兄貴兄貴と呼び続けた。


 ケンイチの口元は微かに微笑んでいた。

 両親が残してくれた遺産を一人で食い潰し、それでも懲りずに借金まみれになった時に尻拭いをしてやったにも拘らず、あろうことかケンイチの妻と関係を持ち、家庭を崩壊させた弟を、ケンイチは決して許してはいなかった。

 長く絶縁状態にあった弟を実に三十年ぶりに呼び寄せたのは、仲直りのためではない。宝くじの話は、もちろん嘘だ。実の弟と妻に裏切られ、ひとを信じることができなくなって、見舞客もなければ世話をしてくれる家族もいないような侘しい人生を送ることになった報復を弟にする、そのための一世一代の大芝居だった。あまりにもうまくいきすぎて、当のケンイチが驚いたぐらいだった。散々ついていなかった人生で、最後の最後にこんなことがあるなんて。


 孤独なケンイチの趣味は読書で、自宅は書斎のみならず、階段や廊下にまで本が積み上げられている状態だ。ケンイチは、その本の山の中から一枚の紙きれを探し出すために弟がどんな狂態を演じるかを思い、満ち足りた気分で息を引き取った。


      *


 暖かな春の日差しの中、ケンジは杖をつきながらゆっくりと歩いていた。杖を持っていない方の手には、小さな花束を大事そうに抱えている。ケンジは両親と兄が眠る墓前に立つと、枯れた花をどけて、新しいものに活け変えた。


「また来たよ、兄貴」


 ケンジは、目を細めて墓石を見つめた。

「若い時に好き放題やっていたツケで、七十を過ぎても誰も面倒を見てくれる者がいない。自業自得なんだが、それでも寂しいよ。兄貴がいてくれたらなあって、そればっかり考えてる。兄貴が死んでからもう十年になるっていうのになあ」


 ケンジは、墓石に水をかけると、兄の好物だったおはぎを供えた。線香に火を点ける手が震えてかなり手こずったが、どうにかやり遂げると、両手を合わせて、長い間拝んでから顔をあげた。

「最近思い出すのは、ガキの頃のことばっかだよ。お袋のこと、親父のこと、兄貴のことも。『まっとうな人間になれ』って親父にも兄貴にもさんざん言われたなあ。でも俺は耳をかそうとしなかった。お陰でこのざまだ」


 去り際に、ケンジはちょっと微笑んだ。振り向いて墓石に向かってこういった。


「そういえば、兄貴、最後に会った時に、宝くじに当たったなんて言ってたな。あの時右の頬がちょっと引きつっていたから、俺にはすぐに嘘だってわかったんだ。相変わらず嘘が下手だったなあ。兄貴は真面目すぎるんだよ。だけどな、そんな兄貴に、今わの際にあんな嘘をつかせるほど、俺は兄貴に酷いことをしたんだなあって、あの時身に染みてわかったんだ。本当に悪かったよ。俺ももうじきそっちに行くだろうから、そうしたら久しぶりに、一緒に酒でも飲もうや。俺のこと、まだどうしても許せないなら、好きなだけぶん殴ってもいいからさ。早く俺を迎えに来てくれよ、な」


 ケンジは鼻をすすりあげると、ゆっくり杖をつきながら歩き出した。家に戻ったら彼は兄が遺していった膨大な蔵書の中から孤独な夜のお供を探すだろう。若い頃は一切本など読まなかったのに、おかしなものだとケンジは思う。

 何しろ数が多すぎるので読み終わった本が溜まると古本屋に持って行く。ほとんどはタダ同然の値段しかつかず、ケンジとしても兄が大切にしていた書物であるから捨てるに忍びなく、引き取ってもらえさえすればよいという心持でいるのだが、稀に驚くほどの高値がつくこともあった。そんな時は決まって、ケンジは兄が好きだったおはぎを買って、墓参りにでかけることにしている。

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