第76話 捨て捨て猫
猫の鳴き声がしたとき、実に嫌な気持ちがした。また隣の猫だ。時計を見ると午前二時過ぎ。アパートの駐車場に面したガラス戸の外に、やつはいる。
私はいつも夜中の二時三時まで起きているから、灯りが猫を引き寄せるのだろう。隣の一〇一号室、飼い主一家の部屋の前で鳴いていることもあるが、とうの昔に就寝しているであろう彼らが夜中に起き出して猫を部屋に入れてやることは、ない。これまでそのようなことは一度もなかった。なにしろ安普請だから、静かな夜更けに隣の家のガラス戸が開けば、こちらにわからないはずがない。
私は、他所の猫を自分の部屋に招き入れたりはしない。動物が苦手なのだ。外で件の猫に遭遇しても、向こうはなれなれしく体を摺り寄せてきたりするのだが、恐ろしいので頭を撫でてやったことすらない。
それでも、やつは夜中に度々私の部屋の前にやって来ては、中に入れてやらないこっちが非情な人間であるかのような罪悪感を抱かせる、実に切ない鳴き声で、外は寒いから中に入れてくれ、としきりに訴えてくるのだった。
(そんな声を出したって、夕方に隣の奥さんがおまえを家の中に入れようと、何度も名前を呼んでいたのを無視して、今まで遊び呆けていたことを知っているんだからな!)
そう思って、私は心を鬼にするのだった。
最初の頃、あまりにも近くで猫の鳴き声がするのに驚いて、うっかりカーテンを開けてしまったのがよくなかったのかもしれない。
ガラス戸の横に設置されているエアコンの室外機の上で、そいつは寒そうに体を丸めていた。瞳孔が開いてまん丸になった目を驚くほど間近で覗き込むこととなり、慌ててカーテンを閉めた。それ以来、何があってもカーテンは開けないことにしているのだが、あの一瞬で恐らくやつは私の弱さを見抜いたに違いない。またあのまん丸の目で見つめられたら、ふらふらと戸を開けてしまいそうだ。
しかし今回は、猫の声がより切実に聞こえる。隣の一家は、一週間ほど前に引っ越したのだ。
小学生の子供が二人いる夫婦が、この二DKの狭いアパートにそれまでどうやって暮らしていたのか想像もつかないが、やっと中古の一軒家が見つかった、と奥さんはとても嬉しそうだった。小太りで愛想がよく、人見知りする私が唯一近所づきあいをしていた人である。あの猫は、以前アパートの隣の家の住人が引っ越す際に捨てていったのを、見兼ねて奥さんが引き取ったのだそうである。
アパートはペット禁止であったが、大家には野良猫に餌をあげているだけということにしているらしかった。ああいう心優しい人間でも、いざ念願のマイホームを手に入れたとなったら、家を傷つけられるのが嫌で、捨て猫を再度捨てるのか。人間の都合で二度も捨てられるとは、なんとも気の滅入る話である。
なおおおおーん
なおおおおーん
この寒空に突然住む家をなくしたのだと思うと、鳴き声も一層物悲しく聞こえる。いくら動物が苦手な私でも、せめて餌ぐらい与えてやろうか、という気が起きる。だが、今以上になつかれては困る。私が飼っていると誤解されたらどうする。ひたすら無視している今ですら、やつは私の部屋の前に来て鳴くのだ。ちょっとでも隙を見せたら何をされることか。どこをほっつき歩いてきたのかわからない毛むくじゃらで鋭い牙と爪を持った獣に触れたり家の中に招き入れたりすることは、断じてできない。
私はイヤホンを耳にねじ込んで、大音量で音楽を流した。
🐈
引っ越し先は近所だと言っていた通り、元隣人の奥さんとは引っ越し後もスーパーや散歩の途中でちょいちょい顔を合わせた。その日は、上の子が中学生になるというので、制服一式を含む大荷物を抱え、自転車に乗っていたが、私に気付くとにこにこしながら自転車を止めた。こんな状況でも知人を見つけたら立ち話をしたい人なのである。お互いの近況を報告し合った後に、奥さんが言った。
「そういえば、うちの猫、そちらに行ってないかしら」
「あ、時々夜中に来て鳴いてます」私の部屋の外で、と心の中で付け加えた。
「あら本当? ごめんなさいね。まだ新しい家に慣れないらしくて、そっちに行っちゃうみたいなの。近くのお友達に猫缶を渡して、時々餌をあげるようにお願いしてるんだけどねえ」
その後しばらくして、ガラス戸の外で物悲しい鳴き声がすることはなくなった。猫もようやく、自分の家が移動したことを理解したようである。
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