第75話 道化恐怖症

 改札を出て、人通りの多い商店街に吐き出された私の目に、いきなりそれが飛び込んできた。


 白塗りに、毒々しい赤で大きく縁取られた笑いがへばりついている顔、テカテカ光る素材で、だぼだぼの派手な色合いの服。

 私は幼い頃からピエロが苦手だった。

 幸いこの国で実物に遭遇することは稀だったが、映画や漫画などには度々登場するので都度私を震え上がらせた。これは理屈ではない。ただもう、本当の感情を封じ込めてニタニタ笑うあの顔が怖いのだ。

 

 周囲の人間は誰も気にしていないようだが、そのピエロは、黄昏時で闇に沈みかかった雑踏の中で、一人だけ光を発し、浮かび上がっているように見えた。


 電話をかけようと取り出しかけたスマートフォンをポケットに押し戻し、私は足早に歩きだした。その白っぽい姿が視界から消えても、恐怖の対象の存在がひしひしと感じられるところでは落ち着いて電話などできない。


 なぜそんなことをしたのか。


 足早に角を曲がってしばらく歩いてから、なんの気なしに、ひょいと振り返ってみた。すると、あのピエロが、私のすぐ後ろ、数メートルの近距離に迫っていた。

 立ち止まった私を見て、ピエロも立ち止まった。そして、毒々しい赤で実際よりも随分大きく縁取られた口を、ゆっくりと、開いた。


 私は恐らく悲鳴を上げたのだが、私の耳にそれは聞こえなかった。

 踵を返して一心不乱に走った。


 息が切れて苦しくなってきた時、ようやく落ち着きを取り戻した。

 恥ずかしかった。

 まだ何もされていないし、恐らくあのピエロは私に危害を加える気などなかったのだろうに。たまたま同じ方向に用事があっただけ。なんとも大人げない態度をとってしまった。


 そう思いながら振り向くと、先程より距離は随分離れていたが、やはり肩で息をしているピエロと目が合った。


 私はまた無音の叫び声をあげて走り出した。心臓は危険なほど激しく打ち、腿が上がらなくなって膝が体重を支えることを拒否するまで走った。

 何かに躓いて地面に倒れこんで視界がかすむ。頭を振り、後方に目を向けると、距離は前よりも更に開いていたが、遠く離れていても見間違えようのないあいつ、暗く沈んだ風景に溶け込まない毒々しいピエロの姿があった。


 私は泣いていた。


 いつの間にか人通りのない細い路地に入り込んでしまっていた。工事現場のようだが陽が暮れた今は人の気配がない。叫び声をあげても誰も助けにきてくれそうにない。第一、息が切れて声など出せなかった。


 ピエロの方もかなり苦しそうであったが、私が倒れて動かなくなったのを見ると、腹部を片手で押さえながら、じりじりと近づいてきた。もう一方の手には何か四角いもの――スマホだ――を握りしめこちらに突き出している。私が情けなく怯える様子を動画撮影しているのだろうか。これから私の身に起きることを逐一記録しておこうと。


 そいつの顔に貼りついたニタニタ笑いに、私は震え上がった。


 しかし、近づいてきたそいつは、様子が違っていた。

 分厚いニタニタメイクの下で、その顔は歪み、怒っていた。ピエロの方でもかなり息が上がっていてなかなか言葉が出て来ないようで、しきりに口をぱくぱくさせている。


 ピエロはおぼつかない足取りで私のすぐそばまで来ると、手に持っていたスマホを私の鼻先に突き付けた。真っ赤な口が開いて何か言っているようだったが、何も聞こえなかった。


 私は絶望して首を振った。


 陰険な目で私を睨みつけながら、ピエロは私の耳からイヤホンをむしり取った。その途端、私の耳に周囲の雑音が戻って来た。イヤホンからは、爆音で流れるへヴィ・メタルがシャカシャカと音漏れしていた。


「お前」


 ピエロは肩で息をしながら怒鳴った。


「『スマホ落としたぞ』ってずっと叫んでたのに、この馬鹿野郎」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る