第30話 駐車場から手招きされた子
その子は、六歳。来年から小学生だ。
その子は本が好きだから、よく図書館へ行く。大人しい子だと、会ったばかりの人にも言われる。おかっぱ頭。たまに「こけしちゃん」とか「お人形ちゃん」と呼ばれることがあるが、本人は気に入ってない。なんだか、バカにされているような気がするからだ。
図書館からの帰り道、その子の頬は上気し、口元がほころんでいる。とても面白そうな本を見つけたのだ。本は重くて、細い肩に鞄の持ち手が食い込むが、気にならない。
駐車場の前を通るとき、用心深いその子は、駐車場から出てくる車がないか確認する。車十台分の月極駐車場だ。停車しているのは数台。空いてるスペースの方が多い。
奥に泊めてある車の陰から、手招きしている人がいた。学生服。その子の家のすぐ近くには高校があった。眼鏡をかけ、真面目そうに見える。まだ幼いその子にとっては、相手が高校生でも、背が高ければ「男の人」である。
その子は立ち止まり、首を傾げる。男の人の顔には見覚えがない。だが、人も車もあまり通らないその場所で、男が手招きしているのは、自分であるとしか思えなかった。
その子は大きな瞳で男をみつめる。怒ってはいないが、笑ってもいない。無表情で、おいで、おいでと、手招きしている。
その子は駐車場の中に入り、男のところへ近づいていった。男はなぜか車の陰から動こうとしない。
その子の元気がないことに、お母さんは気付いていた。ご飯は残さず食べたが、普段から口数の少ない子であるとはいえ、明らかに沈んでいる様子。
「どうかしたの?」
とお母さんが訊いても、その子はただ首を横に振るだけ。心配ではあったが、熱はないし、お母さんは夕方から仕事にでかけなければならない。
お母さんが出かけると、その子はテレビの音を少し小さくする。テレビは見ないのだが、一人だと寂しいので。その日図書館から借りてきた、子供の手には少しぶ厚すぎる本を鞄の中から取り出す。しかし、あんなに楽しみにしていたのに、内容がちっとも頭に入ってこない。気が付けば、同じところを何度も読んでいる。
寝る時間になって、テレビを消してお母さんが敷いておいた布団に入って目を瞑っても、その日はなかなか寝付けない。そっと喉元を撫でてみる。少し出っ張っている気がして、その子はぎょっとして跳ね起きる。
お母さんの鏡台の前に立ち、顎を上にあげて喉がよく見えるようにして、もう一度さすってみる。
やっぱり、少し盛り上がっている気がする。
その子は青ざめた顔で布団に戻り、頭から掛布団を被る。
悪い病気をうつされてしまった、とその子は思う。
昼間駐車場に居た学生服姿の高校生は、その子が近くまで来ると、無言のままその子の細い腕を掴んで車の陰に引き寄せ、車体に背中がくっつくように立たせた。背の低いその子の姿は道路からは見えなくなった。高校生は片膝をついてしゃがみ、彼女の顔の前に親指を突き出し
「舐めて」
と言った。
普段は大人の言うことを素直にきくいい子なのだが、その子は口をきゅっと閉じた。唇に親指を押しあてられ、もう一度「舐めて」と言われても、頑として口を開かなかった。
高校生の顔が近づいてきて、その子の額に彼の唇が触れた時、色の白い喉元が丁度目の前に迫って来た。不格好にとび出している突起が酷く不気味であった。その子は趣味が読書なだけあり年齢の割にボキャブラリーが豊富だったが、「喉仏」という言葉はまだ知らなかった。
高校生が去って行く時、彼は駐車場の入り口で振り向き、その子に向かって深々と頭を下げた。
その子はその後しばらく、自分の喉をさすっては、わずかな出っ張りがあるのを確認し、誰も見ていないところでそっと涙を流す日々を送る。唇に押し付けられた親指が口の中に入らないように固く口を閉じていたにもかかわらず、病気をうつされたのだとその子は思う。今は小さく目立たない喉の出っ張りが、どんどん膨らんでいき、ある日ぱちんと弾けて、自分は死んでしまう。そう信じている。
お母さんに話すことは、できない。自分がいなくなると、お母さんが一人ぼっちになってしまうと、その子はまた涙を流す。
いつまでたっても喉の出っ張りがそれ以上大きくなることはなく、どうやら死ぬことはなさそうだと確信できるようになるまで、その子は毎日、何度も喉をさすっては、忍び寄る死の影に怯えて暮らすことになるので、あの学生服の高校生は、その子を一度殺したのと変わりない。
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