第110話 猫には向かない職業
その日は、異常に忙しかった。
世の人々が「古本屋」ときいて思い浮かべるカウンターに座ってひねもす売り物の本に読み耽るイメージは幻想だとしても、忙しいのは主に出張買い付けやら値付けやらの裏方仕事であって、お客でごった返した店内でレジ打ちにあけくれる、というのは滅多にないことだ。
いつもは昼休みに一時間店を閉めて近所のラーメン屋に足を運んだりできるのに、今日はたまたま持参していた握り飯をバックヤードでぱくつく暇さえないありさま。
猫の手も借りたいというのは、こういう状況のことであろう。
「へい、まいどありっ」
突然元気な声がして、驚くと同時に金額を打ち間違えたレシートがじじじじと吐き出されてしまった。
「猫の手貸しますサービスです。夕方引き取りに来ますんで、じゃ」
「は、え、ああ?」
どうするんだ、これ。金額を訂正し、正しく打ち直すには、と慣れない機械操作に四苦八苦しているわたしに、その癪に障る元気な声が告げて、去っていく後ろ姿が視界の端にとらえていたが、気にしている場合ではなかった。お客さんがレジの前に行列を作って待っているのだ。エキセントリックな不思議ちゃんなど相手にしている暇はない。
「にゃー」
「!?」
ふと見ると、ホルスタイン柄の猫が、レジのドロワーの上に、ごろんと横になっていた。
「ふんげえ」
おかしな声が出て、レジ待ちしていたお客さんにどっと笑いが起きた。笑い事ではない。硬貨も札もたぷたぷした白い腹の下敷きになっており、これでは取り出すことができない。
「あらあーかわいい」
安部公房『カンガルー・ノート』の初版本を手にした女性は、猫の頭をなでて、千円札を二枚財布から抜き出すと「お釣りは結構です」と笑いながら出ていった。
帯が破れて小口に染みがあるので千五百円にしていた商品だ。
「ちょっ。まっ。あの」
慌てて猫をどけようとしたが、腹も背中も柔らかく、まるで液体のように流動して抱き上げることができない。「にゃー」と不機嫌な声を出し、尻尾で顔をはたかれた。
レジの前には行列ができているので、仕方なく次のお客の対応をする。大江健三郎『同時代ゲーム』初版。函付き。二千円。これはお釣りなく千円札を二枚もらえた。
「レシート、結構です」とこの女性も猫を撫でて去っていった。
貰ったお金をレジに入れることもできず、仕方なくカウンターの下に突っ込む。次はいかつい顔の男性。一冊二百円均一の文庫三冊。手に一万円札を持っている。
どうしよう。
「細かいのがないんだ」と男性はむっつりした顔で言う。
「すみません、少々お待ちください」焦って猫をレジからどけようとするが、てこでも動かないつもりなのか、「しゃー」と威嚇音を出した。
「君!」男性から厳しい声。「猫をいじめるんじゃない! そこにある横溝正史『犬神家の一族』はいくらかね?」カウンターの奥に置いてあったやつを指さしている。
「あ、これはまだ値付けしてなくて」
「いくらだね」
「あの、状態もいいし、人気の作品なので、よ、四千円で」
「そうか。なら、釣りはいらん。ねこちゃんにチュールでも買ってあげなさい」
ねこちゃん? チュール?
横溝単行本と文庫三冊を手に去りかけた男性に、慌てて先客二人から受け取った千円札四枚を渡した。いくらなんでも、五千四百円ものチップを受け取るわけにはいかない。
そうして、猫がレジの引き出しの上であくびをしたり顔を洗ったりする横で、わたしは冷や汗をかきながら接客を続けた。レジ待ちして並んでいる間に、どうやらお釣りはもらえないらしいと悟った客たちが、一斉に財布や鞄の中をごそごそし、客同士で両替の交渉などを始めた。
お陰で、その後はほとんど「チップ」を受け取らずに済んだ。
日が暮れて、あれだけ混雑していたのが嘘のように静かになった店内で、わたしは一人ぐったりしていた。猫が大あくびとともに伸びをして、ようやくレジの引き出しの上からどいた。
「あー……」
売り上げは上々で、カウンターの下に突っ込んだお金は大量、そうだ、レジ打ちしないと帳簿が……ええと、安部公房大江横溝文庫三冊(西村京太郎、森村誠一、栗本薫)、遠藤周作クリスティチャンドラー乱歩乱歩乱歩……
店にある古本はどれも自分の子供のようなもので、巣立っていった面々を思い出せないことはなかった。しかし、今日のうちにやってしまわないと、明日には忘れてしまうだろう。
「もぉー、お前のせいだからね」
重そうな体の割に軽い身のこなしでひらりと床に飛び降りた猫は、呑気にわたしの足に体をすりつけてくる。
「ん?」
カウンターの端っこに、白い紙が載っていた。それには、万年筆だろうか、達筆な手でこう書かれていた。
「夕方、猫を引き取りにうかがいましたが、お忙しそうなので、また別の日に参ります。その子の好きなものは、煮干しを混ぜたおかゆです」
その後、猫を引き取りに来る者はなかった。
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