第70話 包丁を握りしめて
包丁を握りしめて、マンション一階の駐車場まで下りて行った。平日の日中は大概人気がないし、奥の方は表の通りからは隠れて見えないので、手首を切るには最適な場所のように思えた。床はコンクリートで排水溝もある。血が噴き出してあちこち飛び散ったとしても、水をかけて洗い流せばいい。冷静な心の一部でそんな判断を下したわけだ。
私は十四歳で、世の中に絶望していた。学校を休みがちなため成績はガタ落ち、かつての優等生のプライドはズタボロだった。母親に捨てられ、父親はニグレクト、二つ上の姉とは喧嘩ばかりで、学校には友達が一人もいない。クラスの担任は、休み時間に黒板一面に書き出された私の悪口を読んだが、何も言わずに黒板拭きで消し去った。中学生が人生に絶望するには十分な理由が揃っていた。
直接のきっかけが何であったかは思い出せない。ただ、その日も学校をずる休みして、一人テレビを見ながら、明日は学校に行かなければならない、と考えていたら、家族に迷惑をかけることになるからとか、そんなことをしても私を苛めた奴等を喜ばせるだけだからとか、そういう理性的思考が停止し、もう無理だと、何が何でも今日、今終わらせるのだ、という激情に駆られたのだった。それでキッチンから持ち出した大きな包丁を握りしめて、駐車場まで下りて行った。
父の車の駐車スペースは、駐車場の一番奥にあった。会社には車通勤だから、昼間は当然空だ。車止めに腰かけ、左手首に包丁の刃を押し付けた。
しかし、切れなかった。押し当てる力を強め、少し横に引いてみたが、母親が蒸発して以来一度も研いだことがないなまくらな刃では、薄皮一枚切り裂くことができなかった。
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