第4話 9999の願いを叶えてくれる魔人

「お礼に、あんたの願いを九千九百九十九叶えてやろう」

 壺の中から出てきた魔人は、得意げにそう言った。

「それは随分と気前がいい。普通は、三つでは」

 と男は思わず尋ねた。


「三つだと。なんと、けち臭い。人間のように欲深い生き物が、たった三つばかしの願い事で幸福になれるわけがない。むざむざ失敗させて、かえって不幸になったところをあざ笑うのは悪趣味ってもんだろう。さすがに九千九百九十九もの願いを叶えてやれば、いかに強欲な人間でも満足するだろうて」


「はあ……」

「さあ、何でも望みを言ってみろ。金か。女か」

「ちょっと待ってください。そんな急に言われても」

「よしわかった。待ってやる。残り九千九百九十八だ」

「えっ」

「そう血相変えるな。待ってほしいというお前の願いを叶えてやったんだ。しかし、まだ残り九千九百九十八もある。慌てる必要はない」

「そ、そうですね」


 何でも、などと言われても、とっさには何も思い浮かばなかった。早く全ての願いを叶えて真の自由の身になりたいらしい魔人がやいのやいのとせっつくために、余計考えがまとまらない。


「頼むから、しばらく一人にしてくれないか。願い事を思いついたら呼ぶから、それまで待っていてくれ」

「いいとも。今ので二つの願を叶えたから、残り九千九百九十六だ」


 そんなばかな、と抗議する暇も与えず、魔人の姿は消えていた。



「願い事を決めたから出てきてくれないか」

「いいとも。残り九千九百九十五だ」


 魔人はどこからともなく現れ、ニヤニヤ笑っている。

 男はため息をついた。まだ最初の願いを口にしてさえいないのに、もう四つ分無駄にしてしまった。魔人は正しかった。願い事三つぐらいでは、到底足りるわけがない。


「で、何がほしい。金か。女か」


 それは今じゃなくていい、と男は心の中で呟いた。うかつに返事をして願い事としてカウントされてしまうことを防ぐためだ。


「記憶を消してほしい」

「なんだと?」

「中学でいじめられていたことを、未だに思い出して夜眠れなくなることがあるんだ。夕べもそうだった。全部忘れさせてくれ」


 魔人はニヤニヤ笑いを引っ込めて腕組みをし、男の目をじっと見た。


「できないのか?」

「できるとも。今の質問で、残り九千九百九十四だ。しかし、それは少し漠然とし過ぎている。そもそも、いじめというのは主観的に判断するものだろう。向こうは悪気じゃなくても、お前さんが傷つけば、それはいじめになる」

「それじゃあ、連中を許してやれと言うのか? 彼らに悪気はなかったから?」

「そんなことは言ってない。残り九千九百九十三だ。ただ、あんたがどういう思い出を『いじめ』と認識して消してもらいたがっているのか、おれにはわからない。対象外の記憶までうっかり消してしまわないように、どの部分を消すのか、もっと具体的に示してくれ」


 それもそうだ、と男は思った。しばらく考えてから口を開いた。


「それじゃあ、まず――」



「――というわけで、あいつはおれを笑いものにした。ぼくが好きだった京子ちゃんの前で恥をかかされた。小学生だったぼくは大いに傷ついたよ。ずっと忘れていたんだが、不意に思い出した。この記憶を消してくれ」

「よしわかった。残り二千七百四十三だ」

「京子ちゃんの記憶からも、このエピソードを消し去ってくれ」

「いいだろう。残り二千七百四十二だ」

「本当に消したのか?」

「消したって、何を?」


 男は魔人のニヤニヤ顔を眺めてしばらく考えてから


「なんだったっけ?」

 と首を傾げた。


「京子の前でズボンを下ろされて笑われたっていうことを、京子の記憶から消去した。残り二千七百四十一だ」

「京子って?」

「小学生のあんたが片思いしていた隣のクラスの女の子の名前だ。残り二千七百四十だ」

「そうか」

「他に願いは?」

「願いって?」


「おれが閉じ込められていた壺をお前が拾って蓋を開けた。お陰でおれは解放された。そのお礼に、おれは九千九百九十九の願いを叶えてやると約束したんだ。まだ二千七百三十九残っている。早く言え」


「ああ、そうだっけ」


 男は遠くを見る目をした。ここからが長いのだ。魔人は男の顔を眺め、その皺の数を数え始める。


「なあ」

「なんだ。今度こそ金か?」

「飯はまだかな」

「一時間前に昼飯を食べたばかりだろう。残り二千七百三十八だ」

「そうか」


 小さなシングルベッドに腰かけた男は窓の外を眺めているように見えたが、そのやや濁った眼には何も映っていないことを魔人は知っている。この小さな部屋に男が引っ越してきたのは半年前だ。二時間すれば看護師が薬をのませにやって来るはずだ。


「なあ」

 と呼びかけられて、男は少し驚いて魔人の方を向いた。

「誰だ、お前は」


「おれは――」お前に壺の中から解放してもらった者だと言おうとして魔人は口を閉じた。同じ質問にもう何回答えたことか。


「なあ、お前。おれはこれまでお前の願い、七千二百六十一の願いを叶えてやった。しかし、その結果はどうだ。お前はちっとも幸せそうじゃない。人間の幸せは金では買えないと言う。それには幾ばくかの真実があるだろう。だがな、金で手に入る安易な幸せで束の間の快楽を得るということは、そう悪いことじゃない。お前のように、経験してもみないで否定するのはどうだろう。おれはこれまで何度も、何度もお前に提案してきたが、その度にお前は『それはまだ先でいい』と言う。かわりにお前が要求するのは、あいつがあの時ああ言ったことが許せないから忘れさせてくれ。あのとき一人だけ仲間外れにされたのが我慢ならないから忘れさせてくれ。そんなことばっかりだ。なぜ元凶となった連中に直接仕返しをしないんだ? 奴らをひどい目に遭わせろとお前が言うのならそうするし、なんならこの世から末梢してもいいんだ。なぜそれを願わない? お前に見向きもしなかった女のことを忘れるかわりに、モデルのように美しく性格もいい女を女房にしてやることだってできたのに、お前ときたら」


 男はぽかんと口を開けて魔人の言葉を聞いていた。いや、実は何も聞いていないということを魔人は知っている。最近この頃男は、一日の半分以上をこのような状態で過ごすのだ。


「なあ、そんな風に自力で何もかも忘れてしまうことができるんなら、初めからこう言えばよかったじゃないか。『おれを九十九歳の老人にしてくれ』とね」

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