気が滅入るショートショート集

春泥

第1話 ほぼほぼ完璧な世界

 ようやく残暑が去り、日射しは暖かいが風が少し冷たい秋の一日である。


 土曜日の午後の公園は、大勢の人々で溢れていた。幼い子の手を引いたカップル、サイクリングコースを疾走する自転車、犬を散歩させる女性、手を繋いで歩く年老いた夫婦、ベンチに座って読書する女性。


 商店街もにぎわっている。長く世界中の人々を苦しめた疫病が去り、皆は昼間からバーで飲んだくれたり、レストランで食事を楽しんだり、買い物をしたりと各々週末を満喫している。


 この世界では、真面目に一生懸命働けば生活に困らないだけの十分な報酬を得られ、老後は手厚い社会福祉――年金や介護保険等――で悠々自適の生活を送ることができる。賢く才能のある人間は、更に莫大な富や名声を得るが、そこまですばらしい能力に恵まれなくても、幸せになることができる。


 その結果、出生率は当然の如く上昇した。育児休暇の取得は今や当然の権利だが、夫婦あるいは同性親のどちらか一方が子育てに専念するという選択肢も勿論ありだし、シングル・ペアレントにも同様の保障が適用される。働きながら子を育てる者への支援も厚い。


 一方で、病気や怪我のために生活が困窮した者は、これも手厚い社会福祉によって漏れなく救済される。障害があっても自分らしく生きることができるようサポートを受けられる。


 この世界では、人種や宗教によるいさかいや差別もなくなっている。同性婚は当然の如く合法化され、性的マイノリティへの差別もなくなっている。


 同調圧力とか、強い物への忖度とかそんなものとは無縁な世界。政治家への賄賂も忖度も不要で、汚職も腐敗もない。彼らは公僕として国民の幸せのために尽くす。世襲制は廃止され、本当に世の中の役に立つ者が公正な選挙で選ばれる。


 まるでユートピアではないか?


 だがこのような世界にも、欠点があった。必要悪とでも言おうか、とにかく、人類はその必要悪を受け入れることに同意し、このほぼ完璧と言っていい世界を手に入れた。


 突如けたたましい悲鳴が湧き上がった。駅前の活気に満ちた町中に、おぞましい怪物が出現していた。身の丈は十メートルほどもあろうか。それは蛇腹状の極太ホースのような形をしており、ぬめぬめした赤紫の肉でできていた。細長い体の先端には鋭い牙の生えた口らしきものがあり、獲物を狙う蛇のように鎌首をもたげ、目に相当しそうな器官は見当たらないにもかかわらず、品定めをするかのように首を左右に動かしていた。


 生死をかけて逃げ惑う人々を尻目に、それは、一人腰が抜けて動けなくなっていた女子高校生に向かって襲いかかった。悲鳴を上げ続ける彼女の頭部がその怪物の口内にすっぽり包まれた。その刹那、悲鳴の残響を僅かに残しながら、くたりと地面に倒れ込んだ彼女の体には首がなく、無残に切断された切り口から派手に血が噴き出していた。


 怪物の口から呑み込まれた犠牲者の頭部を示す膨らみが、蛇腹がうねうねと動くのに合わせ、ゆっくりと細長い胴体を移動していくのを見て、何名かが体を折って嘔吐した。


 怪物は現れた時と同様突然姿を消し、後には頭部を失った女子高生の骸だけが残った。人々は素早く落ち着きを取り戻し、遺体から目を逸らして歩き出した。


 愛と希望と幸福に満ちた世界を創ってやろう、とそれは言った。初めは誰も本気にしなかった。そんなものは、悪魔の囁きだという者も少なくなかった。しかし、二年も前から始まり世界各国に広がった疫病は、一時的に勢力が衰えることはあっても必ず盛り返し、世界的不況が慢性化し、政治はより一層腐敗し、人々は疲弊しきっていた。


 このしつこい疫病を退散させよう。気候変動の問題も解決してやろう。全ての病気や天災をなくすことはできないが、誰もが最先端の治療を受けられ、災害予防に十分な予算を費やすことができる豊かな世界にしてやろう。とそれは言った。


 学問の自由も保証しよう。目先の利益に捕らわれず、自由に知の探究ができるように。女性の社会進出、男女平等、それも当然に実現させてやろう。とも言った。


 それがなんなのか、正体は未だにわかっていない。ただ、約束されたことは全て叶えられた。疫病は去り、世界中が豊かになり、貧困は撲滅、犯罪は激減、この国では寿命が百二十歳まで延びたが、誰も老後の心配などする必要はない。


 それは、神なのかもしれなかった。


 しかし、それが引き換えに求めたただ一つの条件は、この世界の中から、毎日三人だけ犠牲者が出ることに目を瞑るというものだった。犠牲者の選択は任意に行われるので、いつ誰が死ぬのかはわからない。その都度形を変える怪物が出現し、誰かが襲われる。選ばれた者はこの上なく不幸だが、以前は世界中で犯罪や災害・事故のために膨大な人々が亡くなっていた。これも災害の類だと思えば、安い代償に思われた。


 今さっき襲われた憐れな女子高生の遺体は、ほどなく現れた救急車に回収され、運ばれた。彼女はこのほぼ完璧な世界を維持するための尊い犠牲として、地域の人々は勿論、全世界の人々から感謝される。家族にとっては突然の悲劇だが、彼らは善良な友人知人達に支えられ、できるだけ早く悲しみを乗り越えるはずである。


 このほぼほぼ完璧な世界のために。

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