第22話 屍彼女:カンナ

 コージは閉じた英語のノートの上にシャープペンシルを置くと、時計を見た。午後十一時半。明日も七時には起きなければならない。高校が自宅から自転車で十五分の距離にあるのはラッキーだった。進学校である。高校受験を必死で頑張ったし、今は高校二年だが、既に大学受験モードに入っている。が、息抜きは大切だ。活発になりすぎた脳を休めないと、眠りにつけないだろう。


 彼はVRゲーム用のゴーグルを取り出して装着し、ベッドに横にった。



 そこはコージと彼女が同棲していたアパートの一室だ。


 昭和の狭苦しいアパート、それがひと昔前の作家による小説が好きな彼が選んだゲーム開始の舞台だった。風呂付きだが、浴槽は江戸時代の棺桶のように、膝を曲げて入らなければならない狭い正方形型だ。洗い場も狭く、二人一緒に入るのは無理だった。トイレは共同で今時和式だが、これはゲームの中では使う必要がないので問題にならない。


 部屋の間取りは、狭いキッチンに四畳半、その奥に六畳、いずれも畳敷きだ。六畳間には丸いちゃぶ台が置かれ、夜はちゃぶ台を片付けて布団を一組敷いて一緒に寝ていた。彼女の名前は、カンナという。眼鏡の似合う知的美人で、二人の間にはまだ肉体関係がなかった。


 とはいえ、一つの布団に寝ているのだから、多少のいちゃつきぐらいはある。しかし、カンナは身持ちの堅い子だった。そのようなキャラクター設定にしたのは、勿論彼自身である。


 現実世界のコージには、中学時代から付き合っている同い年の彼女がいたが、実にあっけらかんとしていて、あちらの方から積極的に迫って来るので、彼はただひたすら受け身で、されるがままになっていた。見た目もなかなか可愛いのだから、断る理由がない。


「それ、エロ漫画のシチュエーションのまんまじゃん」


 と皆から羨望の的となる、正に思春期の男子の夢のような彼女がいながら、彼は実は非常に奥手であった。現実の彼女と最後までいったのは中学三年生の時だったが、何もそんなに急がなくても……と内心思っていたぐらいだ。だから彼は、現実では成し遂げられなかった、胸がどきどきするようなプラトニックな淡い恋愛をVRで密かに楽しんでいたのだ。しかし――


『リビングデッド・ハニー(Living-Dead Honey)』通称屍彼女しかばねかのじょは一風変わった恋愛ゲームである。プレイヤーはヴァーチャルな恋人と恋愛関係を築くが、二人の関係が親密になった頃合いを見計らって、パートナーが死んでしまう。


 屍彼女がどういうゲームなのか、コージも知っていた。しかし、彼女が死ぬのは、あくまでも「二人の関係が親密に」なってからのはずだった。そうでなければ、その後彼女がゾンビになって帰って来るという設定が生かされないではないか。


 二人で手をつなぎながら土手を散歩するという、そんなささやかな幸福にコージが胸を躍らせていた時、暴走自転車に轢かれて、カンナは死んでしまった。まだゲームを始めてから三ヶ月しか経っていなかったというのに。


 ヴァーチャルな彼女に情が移ってしまい、なんとしてもゾンビにするまいと頑張っているプレイヤーが少なからずいることは彼も知っていた。彼自身、キッチンに立ちささやかな夕餉の仕度をする彼女の背後から忍び寄って頬にちょこんと唇を押し当てた時に顔を真っ赤にしながら嬉しそうな彼女の姿に、このまま交際が進めば自分もそのようなプレイヤーの仲間入りをするのではないかと思っていた。どのようにして彼女のゾンビ化、つまり死ぬことを防ぐのか研究を始めなければならない、と。


 だが、三ヶ月経って、ようやく彼女のパジャマのボタンを二つばかり外すことに成功し、小ぶりな彼女の乳房に吸い付いて完全に彼女を泣かせてしまった、まだそんなままごとのような関係でしかないというのに、彼女はあっけなく死んでしまった。


 一体どういうことなのか、とコージは軽いパニックに陥った。


 ともかく、彼女は信じられないスピードで爆走してきた自転車に跳ね飛ばされ、高く宙を舞い、水飛沫を上げて川に落下した。コージもその勢いによろめき土手を転げ落ちたが、全身草まみれになった以外は無傷であった。自転車はあっという間に走り去って姿を消していた。


 起き上がったコージは、カンナが落下し沈んだ川面を凝視した。泡がぽこぽこと浮かび上がって水面で弾けていたが、彼女は浮かんでこなかった。


 KANNA IS DEAD.


 と無慈悲な文字が途方に暮れる彼の視界一杯に表示されたからには、もはや手の施しようがないことは疑う余地がなかった。悠長に絶望している暇はなかった。時は夕暮れ、二人はゾンビが街を徘徊し始める前に無事にアパートに帰りつく予定だったのに。


 彼は途方に暮れながらも一人帰宅し、玄関のドアをロックし、チェーンをかけた。それから――


 耐えられなくなってゴーグルを外した。それが三日前の晩のこと。


 だから、ゲームを再開した彼の目の前に現れたのは、三日前に中断した時点からの続きの場面である。彼はボロアパートの自部屋の中に居て、鍵とチェーンをかけた薄っぺらいドアを見つめている。


 カンナが戻って来ても、この薄いドアを破るほどの力はまだ備わっていないはずだった。彼は銃だの日本刀だのといったアイテムを準備していなかった。ゲーム開始時の標準装備は三本の杭とハンマー、それだけ。心臓の辺りを狙って杭を打ち込めば、ゾンビは死ぬ。そのゾンビが元カノならば、そこでゲーム終了となる。彼女を我が手で抹殺するのが忍びなければ、ターミネーションボタンを押して強制的にゲームオーバーにすることもできるが、結果、これまでのデータは全て消去、集めたアイテムやマネーも無効とされてしまうので、もう金輪際このゲームはプレイしないという覚悟がないなら押してはならないとされている。


 あるいは、彼女がゾンビであることを受け入れ、共存することもできる。これは、相手は知性を失ったゾンビであるから、油断していれば襲われ、僅かな噛み傷でも受けようものなら、プレイヤー自身もゾンビになってしまう。


 いずれにせよ、亡くなった彼女は、帰巣本能により二人の愛の巣に戻って来るから、そこで決断を下さなければならない。


 コージは正直、今後どうするのか決めあぐねていた。受験勉強の合間の息抜きなら、もっと楽しいゲームを選択すればいい。ゾンビになった元カノなど、さっさと始末してしまえばいいのだ。まだ肉体関係にも至っていない段階で彼女が死亡するなんて、正直期待外れもいいところだった。他のプレイヤーのゲーム評では、プラトニックな関係のまま彼女が死んだ、なんて苦情は見たことがない。皆、彼女は最高にいい女だった、正にリアルでは出会えない理想の彼女で、心も体もぴったりだったのに……と彼女がゾンビになったことを嘆いていた。


 しかしそれは、「彼女」の貞操観念をマックスに設定するようなプレイヤーが滅多にいないせいかもしれなかった。もしかしたら、それも「彼女」を少しでも長く生きながらえさせようと考えたプレイヤーの姑息な悪だくみと判断されたのかも。


 コージの場合は、特にそんな意図はなかったのだが。


 気が付けば、部屋の中がかなり暗くなっていた。日が暮れたのだ。彼はそのまま明かりを点けずに息を潜めていようかと思ったが、何をしようとゾンビになったカンナはこのアパートに戻ってくるし、やり過ごすことはできない。これはそういうゲームなのだから。


 コージは六畳間の明かりを点けて、ちゃぶ台に向かい腰を下ろした。


 こんなことなら、一回ぐらいやっておくのだった、などと肩肘をついて顎を支え、考える。あの恥じらった顔や、怒った顔が好きだったんだなあ。リアル彼女のように口で彼のズボンのチャックを下ろすなんてことは、間違ってもしないタイプだった。


 玄関の方で微かな物音がした。


 彼は溜息をついて立ち上がると、箪笥の一番下の引き出しの奥から、杭とハンマーを取り出した。今更遅いが、せめて拳銃ぐらいはゲットしておくんだった。鋭く削られた杭の先を、カンナの胸に押し当て、ハンマーを振るう。そんなことが、果たして自分にできるのだろうか。


 ……さん。こぉじ…さぁん


 その声を聴いた時、コージは背筋を冷たいものが走るのを感じた。


 あけて……こぉじさぁん……わたしよ……あけて……


 この昭和のアパートのドアには、のぞき穴がない。ゾンビの動きは緩慢だ。力もそれほど強くない。とりあえず、ドアを開けて、損傷具合がどの程度なのかを確かめてみるというのはどうか。案外、生前と殆ど変わらない姿の綺麗なゾンビかもしれない。それなら、愛せなくもないかも……


 しかし、恐怖は彼の胸を締め付け、こんなものはただのゲームで、いつでもやめられると自分に言い聞かせても、体の震えが止まらなかった。


 ドアノブががちゃがちゃと回る。


 ひっとか細い声を発し、コージはドアノブにしがみついて押さえた。彼の手の中でノブが弱々しく動いた。やはり力はそれほど強くない。このまま朝になるのを待とうか……


 とんとんとん、と軽いノックの音がした。


 こぉじさぁん、わたし、ずぶぬれなの……さむい……おねがいよ、ねぇ……あなたののぞむことなら、なんでもしてあげるからぁ


 案外、ゾンビの方が羞恥心も倫理観もないから具合がいいと豪語する猛者もいると聞く。しかし、コージが求めていたのは、奥手で堅物の彼女だ。頭のネジが緩んだ痴女ゾンビではない。


「た、た、た、ターミネーション!」と彼は震える声で叫んだ。


 彼の目の前に、赤と青のボタンがついた小さな箱が現れた。赤いボタンにはYのマーク、青にはNのマークがついている。


「カンナ、ヲ、ターミネーション、シマス、カ?」


 どこからともなく機械的な音声が響いた。


 ただ、赤いボタンを押せば、このような恐怖から逃れられる。彼はそう思った。


 しかし、できなかった。


 彼はゴーグルを頭から毟り取った。全身に汗をびっしょりかいていた。


 こんな選択を、今しなくてもいい。


 彼はゴーグルを勉強机の一番下の引き出しに放り込み、布団にもぐりこんで目を瞑ったが、電気は消さなかった。

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