第21話 牧歌的殺人

 遅めの昼食の後、妻と散歩に出かけた。妻の実家は兼業農家で、彼女が子供の頃は、稲刈りの季節には親戚一同集まって作業をしたのだという。


 現在、作業の大部分は機械が片付けるといっても、マシンで刈ればそれで終了というわけでは勿論なく、現代でも人手は必要だ。何しろ、田んぼの面積が広い。碁盤の目のように区切られた田が一体何枚続くのか、見渡す限りの田んぼだ。この辺一帯の住民は田植えと稲刈りの季節は会社を休んで農作業に参加するのがあたりまえらしいが、都会で会社員をしている俺は、仕事を理由に毎年参加を見合わせていた。


「すごいなあ」


 俺は感嘆の声を漏らした。子供達の夏休み中に遊びに来た時は、青々と成長した稲が一面に広がり風にそよいでいたのが一転、今は、枯れた色の切株が無数に並ぶ荒野だ。


 四季折々の田んぼの姿など子供の頃から見慣れている妻は、特に何の感慨もないようで、畦道をどんどん歩いていく。俺は週末を利用して妻の実家まで新米を貰いに来たついでに子供達を義父母に預け、妻の実家でごろ寝をしていたかったのだが


「そのお腹! しゃれにならないわよ」と妻に無理やり食後の散歩に連れ出された。


 小学生の子供達は元気に祖父母と一緒に近くのショッピングセンターに映画を観に出かけていた。子供を育てるなら、こういう環境が理想的だと思う。しかし、結婚する時妻が実家のあるこの田舎に住みたいと言った時は、断固として反対した。食べ物がうまいというだけで、冬場は二メートルもの積雪がある土地には到底暮らせないと思ったのだ。しかし――


「老後なら、こういうところに暮らすのも悪くないかもな」と俺は立ち止まって煙草に火をつけながら言う。


「ちょっと、やめてよ」


 田んぼの横を走る用水路を眺めていた妻が、振り返って顔をしかめた。三メートルは離れているのに、実に鼻が利く。


「このくらい、いいだろう。家でもお前の実家でも我慢してるんだぞ」


 最初の子を妻が妊娠した十二年前に、自宅内での喫煙が禁止になった。妻の父親は煙草を吸う人間だったので、妻の実家でなら堂々と吸えると思ったら、一人娘が初孫を身籠ったと知った時点で義父はすっぱり禁煙してしまった。お陰で俺は常に携帯用灰皿を持ち歩き、肩身の狭い思いをしながらベランダなど外で煙草を吸うことになった。


「あなたも禁煙すればいいのに。お父さんなんて、私が生まれた時は平気でスパスパ吹かしてたのに、孫ができた途端にやめたのよ」

「じゃあ俺も、孫ができたらやめるよ」


 長男は十歳、長女は八歳。まだ当分先の話だ。妻は呆れたように首を振ると、どんどん先に行ってしまった。


 俺は見晴らしのいい景色を楽しみながら、遠慮なく煙草を吸った。軽トラックが一台のんびりと通過して行った以外は、はるか彼方に犬を散歩させる人がいるだけ。秋風はひんやりして、気持ちよかった。煙草もうまいが、飯もうまいため、たった一晩妻の実家に厄介になっただけで、腹回りが一段ときつくなった気がする。


 ふと妻はどこかと目で捜すと、居た。いつの間にか、あんなに遠くに。しかも、田を仕切る細い畦道を通って無数に並ぶ田んぼの中ほどまで進み、そこから更に先へ遠くへと進んでいる。


 少し体が冷えてきたので、煙草を灰皿の中で押し潰すと、妻の背中を追って歩き始めた。畦道は細く、うっかりすると田んぼの中に転げ落ちそうだった。農家の人に見咎められなければいいが、と少し心配になった。


「稲が青々と成長すると、幼い子供一人ぐらいは容易に隠れられる高さになるの」


 以前妻がそんな話をしていたことを思い出した。子供の頃は、田んぼで遊ばないようにときつく言い含められたという。何故なら、田んぼで姿を消して、二度と戻って来ない子供が何人もいたから。


 てっきり子供を怖がらせるためのよくある「人さらい」の言い伝えかと思いきや、実際に子供を襲った犯人が捕まったことがあるのだという。それは近所に住む若い男で、三十年の刑期で刑務所に入れられた、と。


「でも、行方不明の子供の遺体は、骨の一部しか見つかってないの」


 ゾッとしない話だ、と俺は思った。見渡す限りの田んぼが連なる先に聳え立つ、てっぺんに雪を頂いた山脈。ここには小さな子供の遺体を隠す場所なら、近隣にいくらでもありそうだ。


 俺は一層小さくなった妻の背中を目指して、足を速めた。空がとても低く、手を延ばせば届きそうだ。よく晴れた秋空だが、早くも夕暮れの気配が感じられた。左手側の遠くには交通量の多い道路を車がひっきりなしに往来している。道路に沿って並んだ電柱から伸び、たわんだ電線に、無数の鴉がびっしり並んで停まっていた。何羽かは、特に餌が残っているようには見えない土が剥き出しの田の上に降り立って、あちこちつつきまわしていた。ちょっとヒッチコック映画を思い起こさせる光景だ。都会にも鴉は居るが、ここでは何もかもスケールが違う。


「アキコ!」


 妻の名前を呼んでみたが、聞こえた様子はない。一体どこまで歩いていくつもりだ。まさか、突き当りの山まで? 近くに見えていても、とんでもない距離があるのだろうに。


 仕方なく俺は足を動かし続けた。正直、もう歩くのが嫌になっていたが、妻を置いて帰る気にはなれなかった。一つの田んぼを越えて、また別の田んぼを通過する。そんなことを何度も繰り返したのに、妻の小さな背中は一向に近づいてこない。それどころか、一層遠ざかっていくような気がして、俺は不安になった。米粒程になった妻が消えてしまうような気がしたのだ。俺は走り始めた。


 途中何度か妻の名を呼んだが、彼女の耳には届かなかった。俺はすぐさま息を切らし、無様に喘ぎながら、汗だくだった。


 辺りはもう疑いようもなく、昼間の輝きを失っていた。ポケットに財布を突っ込んできてよかった。帰りはタクシーを拾うとしよう。


 息が切れてどうしようもなくなり、俺は立ち止まった。田んぼのど真ん中だ。細長い首と嘴を持つ鳥が少し離れた所から俺を見ていた。


 先ほどよりは少し大きくなった妻の背中に、もう一度大声で名前を呼んでみた。すると、妻は振り向いて、手を振った。あちらも何か叫んでいるようだが、聞き取れない。


 呑気なものだ。


 安堵と共に怒りが湧き上がってきた。できるだけ大袈裟な動作で俺はポケットから煙草を取り出した。俺が何をしているか気付いたらしい妻が怒りのゼスチャーを示してくる。いい気味だ。


 気が付いたときには、その男は既に妻まで数メートルの距離に近づいていた。遠目ではあるが、ひょろひょろとした体躯の男性だと思われた。男は、縦に走る畦道の途中で、俺に煙草を吸い過ぎだと身振り手振りで示そうとしている妻に、田んぼの中を通って大股に歩み寄ると、妻の体に飛びかかった。


「危ない!」


 俺の叫び声が届いたのかどうか、妻は男に気付いて振り向いた。が、文字通り飛びかかってきた男のタックルをまともにくらって、男と共に田んぼの中に落ちた。妻よりも早く起き上がった男が、頭上高く腕を掲げて振り落ろすと、妻の体は、地面に横たわったまま動かなくなった。


 男は手に持っていたものを傍らに放り投げると、妻の上に覆い被さった。


「おい、やめろ!」


 呆気に取られていた俺は、煙草と携帯灰皿を投げ捨てると、田んぼに下りて走り出した。徐々に近づいていくにつれ、男が妻に何をしているのか、はっきり見えるようになった。妻の体は、男の体の動きに合わせてがくがくと揺れているだけで、自発的に動いている様子はなかった。


「やめろ、離れろ」


 俺は走りながら叫んだ。男の顔が俺の方を向いたような気がした。しかし、二人のところまではまだ相当距離があった。心臓が口から飛び出しそうだったが、俺は重たい足を動かし続けた。


 ようやく妻が横たわる田んぼに到着、というより横に走る細い畦道を乗り越えようとして転げ落ちた時、男は既にズボンを上げ、ベルトを締め直したところだった。頭を反対側に向けた妻の顔は見えないが、相変わらずピクリとも動かない。


 パッと見の印象では、三十そこそこの若い男だと思った。しかし、起き上がろうとして足が思うように動かず必死にもがく俺の方へ近づいてきた男を見て、それは間違いであることに気付いた。文学青年のように黒くぼうぼうと伸びた髪には白いものが随分混じっていたし、干からびた顔には無数の皺が刻まれていた。殆ど骨と皮ばかりの手に握られているのは、鎌だった。


「三十年経って、出所してきたんですって」


 妻の声が甦って来た。


「じゃあ、危ないじゃないか。子供達を外に出さない方がいいんじゃ」


「それがもう何年も前のことで、今はもう六十代よ。年取った母親の住む家に引き取られて、一歩も外に出ないんですって。子供に手をかけた犯罪者って、刑務所では苛められるんですってね。出所した時は酷い有様だったそうよ。百歳近い老人みたいだったって」


 こいつがそうなのだろうか、と俺は無表情に近づいて来る男を見据えながら思った。体が動かず、声も出せなかった。


 男の背後でじっと横たわる妻の体に、無数の鴉が舞い降りていた。


 俺は肩で息をつきながら、やめろ、と叫んだつもりだったが、弱々しい声は、興奮してしわがれ声を上げている鴉にすら届かなかったろう。


 目の前に立ち、汚れた鎌を振り上げた男が口を開いた。その口の中には、歯が一本もなかった。

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